12月10日(日)聖日礼拝

「聖 書」
愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に溶け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません。神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、溶け去ることでしょう。しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。

(ペトロの手紙 二 3章8~14節)

説 教 「一日は千年のよう」

アドベントの蝋燭の2本目に火が灯りました。本日の御言葉は「平和」です。配当聖句の最後に「平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい」と勧められています。これは使徒ペトロが遺言として残した「愛の言葉」です。偽教師に惑わされずに、純真な心を保ち、「再臨のキリスト」を待ちなさいというのが、本日の御言葉の中心テーマですが、使徒ペトロは最後に「(互いに)平和に過ごせ」と語るのです。この勧告はアドベントを如何に過ごすのかというテーマと同じです。私達は自分の心が穏やかでないなら「平和に過ごす」ことは適いません。では私共の心の中をいつも「安寧(平和)」に保つ方法はあるのでしょうか。常に私共の前には、これでもかと問題の嵐が降りかかってくるのです。ペトロは12節において「神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。」と語ります。「神の日」は「主の日」であり、キリスト再臨の「裁きの日」です。「その日」を待ち望めというのです。キリスト者にとって、その日は完全な勝利の日です。ですからキリスト者にとっては「神の日」は宴であり、喜びなのです。その意味が分かるならばペトロの真意は理解できます。ならば、「それが来るのを早めるようにすべきです」とは、どんな意味なのでしょう。8節に「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。」とあります。この言葉は「再臨遅延問題」で、偽教師によって惑わしを受けた信徒たちに向けて、神の時と人の時は異なるということを伝える為に語った言葉です。この言葉自体には深い意味は無いかも知れません。しかし次節に記された「神の忍耐」という言葉の重みを考える時に、「一日は千年のよう」は、「神の痛み」と考えられないでしょうか。愛する子が行方不明になる時、親は「一日は千年のよう」に長く感じる時を過すでしょう。永遠の死に至る子が「救いの父」のもとに帰って来ない時に「愛の神」は心配で心配で心が痛み続けるのです。そして人が「主のもと」に帰る時、「千年は一日のよう」に今までの長い苦しみは、喜びで忘れて下さるのです。私共は、その愛の神である「主のもと」で過ごしています。私共は互いに愛し合い、赦し合い、傷や汚れが何一つない「救いを受けて」人々と「平和に過ごす」べきです。私共が福音に生き、神を信じ、希望に生き、互いに「平和を過ごす」ことが適うならば、天国は人々に広がっていくでしょう。神の時が早まるのです。