12月11日(日)聖日礼拝

「聖 書」

荒れ野よ、荒れ地よ、喜び踊れ。砂漠よ、喜び、花を咲かせよ。野ばらの花を一面に咲かせよ。花を咲かせ、大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ、カルメルとシャロンの輝きに飾られる。人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。弱った手に力を込め、よろめく膝を強くせよ。心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる。

(イザヤ書 35章1~6節)

「荒れ地よ、喜び踊れ」

本日の御言葉は「待降節第三主日」(喜びの主日)に読まれるのに相応しいものです。私は(2019.12.15)の説教にて、同じ御言葉、同じ説教題にて説き明かしを致しました。3年前の12月4日にアフガニスタンにて中村哲先生が凶弾に倒れました。そのキリスト者の「証し」の中にあるキリストを思い起こすために、御言葉が用いられました。本日「説教題」を同じにしたのは、同じ御言葉にて更に深く「キリストの愛」を知りたいと願ったからです。「荒れ地よ、喜び踊れ」この言葉は、キリスト者の変容や喜びの心の有り様を語っています。中村先生は小さな伝道所の初穂でした。彼はキリストに捕らわれた生涯でした。生き方の基本はキリストであり、弱い者に寄り添う事でした。彼は一人一人に寄り添い、一人一人を助け、一人を救うことに全力を注ぎました。本日は補う御言葉として(マタイ11:2~6)もお読みいたしましたが、洗礼者ヨハネはイエスをメシアとして受け入れたにもかかわらずに「つまずき」ました。彼のメシア観が「裁きのメシア」であったからです。主イエスは大きな業を行わずに、一人一人を大切にし、一人一人に寄り添い、一人一人の悩みに応え、救いと癒しを与えられたのです。週報の挿絵を御覧下さい。キューポラの内部に施されたフレスコ画です。主イエスが真ん中におられます。周りに荒れ地に住む住人が救いを求めて集まって来ています。奴隷、貧しい年老いた寡婦、足なえ、盲人、シングルマザー、徴税人、罪人…(別紙)主イエスは救いを求める一人一人に寄り添い、救いを賜りました。彼らの人生が一変しました。彼らの「荒れ地の人生」が「喜び踊る人生」に変えられたのです。その力の源は単なる癒しではありません。神が共におられること。主イエスを信じる幸いを得た事こそ、彼らの喜びの源泉でした。「荒野に泉が湧きだした」のです。彼らの救いは一時のものではありません。彼らの救いは永遠と共なる喜びです。主イエスは裁き主(再臨)であると共に救い主(初臨)です。全能の父なる神は「裁き主」です。しかし裁きに痛みを持たれる方です。その愛ゆえに神は独り子を世に送られ、私共の受けるべき裁きを自らに受けられました。(十字架の死)私共への裁きがキリストの贖いにより、「救い」に変えられました。私共はただ福音を受け入れ、主イエスを信じるだけで良いのです。主イエスは「荒れ地」を草木の生える「花園」に変えて下さる救い主です。