「聖 書」
荒れ野よ、荒れ地よ、喜び踊れ。砂漠よ、喜び、花を咲かせよ。野ばらの花を一面に咲かせよ。花を咲かせ、大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ、カルメルとシャロンの輝きに飾られる。人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。弱った手に力を込め、よろめく膝を強くせよ。心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる。…
主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて、喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げ去る。
(イザヤ書 35章1~10節)
説 教「砂漠よ、喜び、花を咲かせよ」
本日は待降節第三主日「喜びの主日」です。この「喜び」は、待ち望みの喜びです。先週に私は20歳の妊婦の話を紹介いたしました。お腹の子は、特別養子縁組に出される予定でした。それが出産した我が子を見たときに、20歳の母親は「自分で育てる」と言ったのです。妊婦の十月十日は大変です。ましてこの母親は複雑な事情がありました。妊婦は誰しもが、喜びと苦労と不安と痛みを経験します。その妊婦が無事に出産をし、我が子に対面したとき、ただただ愛と慈しみと感謝と喜びと安堵に包まれます。これは何度経験しようと同じ思いとなります。私共は「クリスマスの喜び」を知っています。今は、その喜びの前の週です。今週の「喜び」は素晴らしい出来事と出会いを既に手にしている者が確信している高揚です。本日の御言葉は「栄光の回復」の預言です。終末を象徴する預言であり、「新天新地」(黙示徳21:4)をも意味するものとなっています。このイザヤの預言は国の滅びが差し迫ってきている時のものです。神は預言者を通して、人と武力に頼らずに「神にのみ依り頼め」と王に語ります。(イザヤ31章)36章以降にもヒゼキヤ王の苦悩と祈りが描かれています。(先週にお語りした南ユダの最後の王はゼデキヤです。訂正します。)私共も同じような状況です。切羽詰まったときに神に拠り頼まないのです。神は何故、不信仰な民の姿を知りながら、艱難と裁きを語りながら、「栄光の回復」をも事が起こる前に語られたのでしょうか。それは人に「まことの希望」を与える為です。人は現実の希望があれば生きていけます。私は先週に祈りの中で、神に示されたことがあります。「聖書をもう一度学び直せ」「解釈よりも、いのちの世界へ」神は私共に現実にキリストを与えて下さいました。キリストは救い主であり、王の王です。これは御題目ではありません。ゴスペル兄も私も神から「語れ」と言われました。兄の「語れ」は「賛美」でもあります。「いのちの喜び」を歌うのです。現実のキリストへの喜びを語る(賛美)のです。私も又、現実の荒野の「水が湧きいで」を体験し、語るのです。荒野から救いは始まります。救いは現実です。みことばは現実です。必ず、「人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る」のです。主は来て下さいました。福音は現実に起こったのです。(マタイ11:5)私達は現実の再臨の主を待ち望みます。現実の「千年王国」「新天新地」を希望します。何も希望が無いと思われていた「砂漠」に、(待ち望みの)「喜び」が与えられ、「花が咲き」ます。私共は既に福音にて花咲く人生を手にしています。