「聖 書」
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。…その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは神の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
(ヨハネによる福音書 1章1~18節)
説 教 「主の降誕」
皆様、クリスマスおめでとうございます。本日はヨハネ書の冒頭部を通して、「クリスマスの喜び」と「クリスマスの意味」について、御言葉に聴きたいと願っています。さて、本日の御言葉には、あの美しい「主の降誕」の場面が記されていません。それは何故でありましょうか。それは勿論、それぞれの福音書には、それぞれの編集意図があるからだと言われるでありましょう。私は、それは違うと思います。私はヨハネ書にも「主の降誕」は記されていると思います。ヨハネ書に記された、その「主の降誕」こそ、本日の御言葉であります。マタイ書とルカ書には、目に見える「主の降誕」場面が記されています。それは歴史的な事実として、ユダヤ人と異邦人に、「主の降誕」の意味を伝える為です。ヨハネ書は、その書かれた目的が、「キリスト者が、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、信じてイエスの名により(キリスト者が)命を受けるため」です。ヨハネ書はイエスの「奇跡物語」をすべて「しるし」(セメイオン=サイン)として記しています。イエスの行われた奇跡のすべてが、神の栄光であり、神を「指し示すもの」(サイン)であるとヨハネ書は語っているのです。またキリスト教にとって最も大切な「最後の晩餐」の場面もヨハネ書には記されていません。その代わりに「主の洗足」記事が記されています。ヨハネ書の意図ははっきりとしています。主の「最後の晩餐」の意味を「洗足記事」を通して、ヨハネ書は語っているのです。「最後の晩餐」の意味は、主の命を「分け与える」ということです。その命の内実は、自己供与であり、愛であり、「仕え合う」ということです。イエス様は「主」でありながら弟子の足を洗い、愛を教えました。愛とは「仕える」ことであることを洗足を通して教えられたのです。この仕える愛こそが「最後の晩餐」の意味です。神は、御自分が神であることを「置いて(死んで)」、肉となり、全ての人に「仕えて」、その命を「分け与え」られました。ヨハネ書はキリスト教の大切なところを、すべてその意味を伝えるように意図されています。ですから「主の降誕」の意味もまた、その場面を歴史的に記すよりも、その内実を伝えることに重きを置いたのです。ではヨハネ書が語る「主の降誕」の真実は何でありましょう。それは「先在の言(ロゴス)」であり、「光」であり、「受肉」です。ヨハネ書の冒頭部は創世記と同じです。神は「光」です。神は創造世界を闇にはしないという意味です。「主の降誕」もまた同じく、世に光を与える神の恵みの事です。