12月7日(日)聖日礼拝

「聖 書」

エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち、唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。正義をその腰の帯とし真実をその身に帯びる。狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる。その日が来れば、エッサイの根は、すべての民の旗印として立てられ、国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。

 (イザヤ書 11章1~10節)

説 教「エッサイの根はすべての民の旗印として立てられ」

「エッサイの根はすべての民の旗印として立てられ」と本日の御言葉は語っています。「エッサイの根」とは「キリスト」のことです。その「エッサイの根」であるキリストの「旗印」を求めて国々は集い、そのとどまるところは「栄光に輝く」とイザヤは預言しています。「メシア預言」と呼ばれる箇所です。この預言の語られた当時の詳しい背景は以前の説教を参照ください。(2013.12.8、2016.12.4)以前の説教でもお語りしたように、このところの「旗印」キリストは「霊的な平和の王国の王」です。それは「狼は小羊と共に宿り」に、始まる「エデンの園(天国)の回復」の姿が預言されていることからも分かります。「まことの平和の王国」は「霊の国」です。メシアには「主の霊」がとどまるとあります。メシアの創る国は「大地は主を知る知識で満たされる」とあるのです。これは「教会」の姿です。まことの「平和の王国」は再臨のキリストを待たなければなりません。しかし教会は「天国の先駆け」です。主の創られる「平和」は今は私共に託されています。私共キリスト者は、キリストに日々に聴きつつ、キリストの苦しみを共にします。「正義を腰の帯とし、真実を身に帯びて」、世に向き合うのです。先日「ライフライン」で長沢師のバングラディッシュ支援を視聴しました。「児童婚」の実態に現実の厳しさを思わされました。神はおられるのかと感じる現実でしょう。しかし、この現実は人の責任です。TVの中で支援を受けた児童が教育を受け、キリスト者となり、同じ貧困に苦しむ子の為に働いている姿は救いを見た思いでした。福音版の「小さな命の帰る家」の記事の中に出て来る二十歳の妊娠した女性の話は、日本の中の隠された貧困の出来事です。余りにも厳しい現実です。記事の最後の女性の変化は希望です。松原師の涙の意味もよく分かります。私共の周りには「まことの平和」は実現していません。「正当な裁き」がなく、「公平な弁護」がないからです。教会は、私共は主の霊を受けた者です。主は既に来られました。私共は再臨のキリストが来られる前に、御国建設の為に働くことができます。「よくやった、良い僕だ」と言われる働きを為すことができます。勿論、私共には無理なことはあります。私は、先週に来年のクリスマス会場確保の抽選に行ってきました。抽選番号は最下位でした。主は何故、最下位にされたのかを考えました。万事休すの時に、なお主を信頼せよ。神は救われる。その通りになりました。私共が霊に信頼し、神の言葉に従い、御国に生きるならば、その「旗印」に全ての者は集い来ます。