「聖 書」
あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。わたしがあなたが一同についてこのように考えるのは当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように、そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となりイエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。
(フィリピの信徒への手紙 1章3~11節)
説 教 「その業を成し遂げて」
本日の御言葉は、パウロ先生の「祭司としての祈り」です。「祭司」はまず自らが「聖め」られていなければなりません。キリスト教が語る「聖人」とは「罪赦された罪人」のことです。先生は「福音の喜び」を生きられた方です。罪の赦しを経験された方です。「天国の喜び」と希望を持っておられた方です。本日、待降節第二主日の灯は「平和」、「心の平和」です。パウロ先生が語る「福音」の喜びと平和について、本日、御言葉に聴きましょう。先週「アドベント」を迎えた私共は「信仰と希望」について御言葉に聴きました。私共の救いは完全なものですが、聖化の道は継続性のものです。その意味を先生の言葉を借りるならば「福音にあずかっている(続いている)」ということです。パウロ先生は、「キリストの日に備えて」今、何を目指し生きるかを教えられました。それは、「清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように」(1:11)日々、聖化の道を歩んでいこうというメッセージです。これは別の言葉で言うならば「まことの悔い改め」です。私共の師である柘植先生は救いの基本は「悔い改め」である。一にも二にも「悔い改め」であると常々言われていました。「まことの悔い改め」は「完全な赦しを確信」させます。これが「義の実」のことです。「救いの喜び」のことです。「まことの救い」を経験した者は、内側から喜びが溢れ、「神の栄光と誉れをたたえる」ようになるのです。御言葉が語る「できるようになる」が更に正しい言い方です。これは「恵み」(カリス)であるからです。パウロ先生は(一コリント6:9)にて「正しくない者は決して神の国を受け継ぐことができません。」と明言されました。自らの体験です。先生は主に出会う体験を通して、自らが「人を悪く言う者、迫害する者、傲慢な者」であることを示されました。「とげ」の体験です。先生は主の十字架の贖いを信じました。赦しを体験されました。「まことの平和」と「天の御国」を知りました。先生は福音に遣わされる者とされました。福音の喜びに満たされる者とされたからです。フィリピ書は「喜びの書簡」と言われます。「福音」が9回、「喜び」が16回も出てきます。パウロ先生は獄中にあっても、「福音の喜び」が包み、その魂を守られていました。先生は「聖なる者たち」に語り掛け、祈ります。「愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。」私共の進む道には「平和」と「神の栄光」の祝福があります。