2月1日(日)聖日礼拝

「聖 書」

イエスはこの群集を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。

(マタイによる福音書 5章1~12節)

説 教「心の貧しい人々は、幸いである」

先週に弟子たちの「召命」の場面の御言葉を聴きました。彼らは「闇に住む民」であり、彼らは主イエスに「光」を見たので、「すぐに」主に従うことができたのですと解き明かしを致しました。弟子たちの「神の霊の命を生きる」開始の日でした。本日は、その後に続く出来事です。主イエスの宣教が、ガリラヤで行われ、大勢の群衆が来てイエスに従ったと前節に記されています。「イエスはこの群衆を見て」と本日の御言葉は始まります。「この群衆」は「癒しを求め、救いを求める「魂に飢え渇き」がある貧しい人々(死の陰の地に住む人々)」でありました。その人々に「神の霊の命を生きる幸い」(山上の説教:真福八端)を主は語られたのです。初めに主は「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものだ。」と言われました。「心の貧しい」とは「神の前に跪く者」ということです。神の前に頽れる者は天の国を手にすることができる、それは天の国が「主イエス」のことであるからです。主イエスはあなたを助ける為に世に来られたのです。そして「柔和な人々は、地を受け継ぐ」と言われました。この「柔和」(プラエイス)は「神の愛と憐みに信頼する柔和さ」のことです。主は私を助け、「私の人生の全てを委ねて良い安心なお方」という信頼に生きる平安を語る言葉です。主に委ね、安心して生きる者は「地の祝福」も受けるのです。後半には何が語られているか。それは神の霊の命を生きる幸いの具体を語っています。一言で語るならば「敵を愛しなさい」(5:43~)ということです。私共は恨み辛みで生きています。「義に飢え渇く」(罪、差別、苦しみからの解放)者が神の霊に生きる時、満たされます(解放)。「憐み深い」(赦す)「心の清い」(憎まず)「平和を実現」(敵との平和の実現)神の霊の命を生きる幸いは、敵を愛し、敵を赦し、憎みません。敵との平和を実現します。私の敬愛するマザーテレサは終生霊の貧しさと戦い、神に救いを求める方でした。マザーが召命を受けたときに聞こえた主の言葉は「come be my light」でした。意味は「わたしの光となれ」です。私共には光はありません。主が共にいて下さるときに、主の光が私にあるのです。「山上の説教」は「律法」の本質を要約したものです。私共が主の言葉(聖書:律法)に聴き従う時、私共は「幸い」(マカリオス)な者なのです。私共は主に愛されています。誰かと比べて生きる必要はありません。恨み辛みの人生から解放されました。美しい人生が始まっているのです。私共は「主の光」となりましょう。主が希望です。主が喜びです。霊を生きる者は幸いです。