「聖 書」
神は女に向かって言われた。
「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。
お前は、苦しんで子を産む。
お前は男を求め
彼はお前を支配する。」
神はアダムに向かって言われた。
「お前は女の声に従い
取って食べるなと命じた木から食べた。
お前のゆえに、土は呪われるものとなった。
お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。
お前に対して
土は茨とあざみを生えいでさせる
野の草を食べようとするお前に。
お前は顔に汗を流してパンを得る
土に返るときまで。
お前がそこから取られた土に。
塵にすぎないお前は塵に返る。」
(創世記 3章16~19節)
説 教 「塵に返る」
本日は「原罪」と「いのちの根源性」について御言葉に聴きます。次週から「四旬節」に入ります。「十字架の死と復活」の時に向かって、自らの命の根源に向き合います。人は「霊的な存在」と言われます。何故でしょうか。それは人が神の霊を吹き入れられた結果、「生きる者となった」と言われる存在だからです。(創2:7)我々が神から離れる時、私達の霊は死んでいる状態です。これが「原罪」です。(3:10)しかし、神は人の自己中心ゆえに死に向かう私共の為に「原福音」を用意されました。(3:15)イエス・キリストです。私共は世にあって苦しんでいます。その「苦しみ」(アーツァブ)が本日の御言葉に記されています。この「苦しみ」は単なる肉の苦しみではなく、神の神秘の苦しみです。本来ならば、「出産」も「労働」も祝福です。にも拘わらずに、人が神から離れて生きる時、目的を見失い、的を外す故の苦しみを生きます。しかし女が神に立ち帰る時、出産は喜びです。男が神に立ち帰る時、労働は喜びなのです。私達は神に創造された被造物です。私達を構成しているものは物質(塵)です。物質には意思はありません。しかし私達には、「意識、感情、情熱、創造性、良心」(意志)があります。神の霊が吹き入れられているからです。しかし、その意思を自己中心(自由意志の誤用)に用いるなら、神との関係を自ら断つこととなり、私達は「死ぬ者」となります。つまり私達に霊がなければ、「塵」は「塵に返る」だけです。本日の御言葉の後節に、神が、「堕罪」に陥った二人に「原福音」を与えるだけではなく、「皮の衣を着せられた」(3:21)と記し、命の保持の恩寵が描かれています。また、この御言葉は、血による「贖い」をも示しています。旧約聖書はヨシヤ王の宗教改革の時に編纂事業が行われました。申命記史家らは創世記の「堕罪物語」を自らの「ヤハゥエ礼拝の堕落」と重ねました。「失楽園」は「約束の地からの追放」と重ねたでしょう。神は私達に「自由意志」を与えられました。強制ではない、自由意志による「愛の交わり」に入れる為です。まことの「永遠の喜びの交わり」を互いに生きるためです。私達は立ち帰りましょう。私達の苦しみの根源を見つめましょう。「塵」に意思はありません。私達はただの「塵」ではないので、「神秘の苦しみ」があるのです。私達に与えられている苦しみは、神に立ち帰るための「試練」です。私共は罪を悔い改め、神に立ち帰り、永遠の命を共に生きましょう。