「聖 書」
しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。しかし、このことは、
「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された。」
と書いてあるとおりです。わたしたちには、神が“霊„によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊„は一切のことを、神の深みさえも究めます。
(コリントの信徒への手紙 一 2章6~10節)
「神秘としての神の知恵」
私共は何と幸いでしょう。キリストを信じているからです。「福音」を受け入れているからです。パウロ先生は先週の御言葉で、「神の秘められた計画」(福音)を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。」と言っておられました。この意味については、先週の説き明かしで「知る」(悟る)ことができました。にも拘わらずに、本日の御言葉では、「しかし、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。」と言われています。矛盾はないのでしょうか。本日は、この意味を解き明かし、御言葉の豊かさを味わいたいと願います。パウロ先生は宣教に遣わされ、信仰が豊かに成熟(完成)されています。先生が、ここで語る「知恵」は自分の知恵ではありません。成熟(完成)した信仰者の間で語られる知恵は、「隠されていた神秘としての神の知恵」です。私共に、先生が語る「知恵」が見えているでしょうか。本日の御言葉は、私共に「キリスト者の成長とは何か」ということも突き付けています。「神秘としての神の知恵」は人の心(人の中心=私そのもの)には思い浮かびもしません。それゆえ、「宣教の愚かさ」も起こってきます。先生はイザヤ書64章などを自由に引用しながら、その真理を語ってくれています。人の心に思い浮かびもしなかったことも「神は御自分を愛する者たちに準備された」。先生は「神秘としての神の知恵」を悟ることができているのです。初代教会では、未だ教団に属さない者や、洗礼を受けて間もない者を「幼な子」と呼びました。霊に属する者とされてもなお、「生まれながらの人」が出てくるからです。つまり「信仰に成熟した人」とは霊の人であるという意味です。「霊の人」は常に神と共にあり、神の御旨を生き、御霊の働きにより、「神の深み」さえも究めさせて下さいます。アーメン!感謝です。この「奥義」は「神の国の住人の妙味」です。この信仰の「深み」は(バソス)です。この「深み」に終着点はありません。深みに向かって、常に進んで行く「深み」です。深みに到着したと思った時に、そこは浅瀬になる「深み」です。この意味は天国の「喜び」を知ったと思った時、更に喜びが喜びを生み続け、終わりのない「神の永遠の喜び」の世界に入るということです。この世の知恵は堕天使・魔物的支配者の息吹がかかっています。それを完全に打ち負かす「力」は「神秘としての神の知恵」しかありません。「わたしは福音を恥としない。福音は神の力です。」ハレルヤ!