2月16日(日)聖日礼拝

「聖 書」

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さな者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」

(マタイによる福音書 5章17~37節)

説 教 「律法を完成する」

私は本日の御言葉を3回解き明かしを致しました。(2011.2.13、2014.2.16,2017.2.12参照)初めてのものの説教題は「律法の完成」です。本日の説教題は「律法を完成する」です。この意味の違いは、「完成」とは「完成へともたらすもの」であるということを強調するためです。今までの説教では、律法の完成者である主に目を注ぐものでした。勿論、御言葉の本質はそこにあります。しかし本日は「御言葉を聴く者」である私共に眼目を置きたいのです。本日の御言葉をよく読んでみて下さい。何か特に感ずることはないでしょうか。本日の御言葉は「山上の説教」の続きのものです。主は「山上の説教」において、「限りない慰めの告知者(愛の福音告知者)」として群衆に語られました。しかしその続きである本日の御言葉は一転して、「義の徹底要求者」となっておられます。このことにおいて、聞く者は困惑しないでしょうか。イエス様は「律法の完成者」なのだから、私共は律法から解放されて、「信仰のみ」ではいけないのでしょうか。主は本日の御言葉で、昔も今も変わらずに、「律法の文字から一点一画も消えうせることはない」と言われました。しかし主の弟子達は「安息日を破り」(12章)、「断食をしない」(9章)という行為をしています。本日の御言葉の真意はどこにあるのでしょうか。この答えも又、「わたしは律法や預言者を完成させるために来た」です。私共が聖書を読むときに、自己本位に読むことがあります。主は、それを「言い伝え」に疑義を入れることで悟りを促しました。聖書の本意は「神との真実な出会い」です。「他者との真実な出会い」を導くものです。ですから聖書を読むときには、霊的に読まなくてはなりません。もし間違って読むようならば、「霊的な導き手」(説教者)が必要です。では最善な説教者とは誰でしょうか。それは勿論、イエス様です。イエス様は「御言葉」そのものです。「律法」そのものでもあります。イエス様こそが、完全に聖書を説き明かし、イエス様に聴き従う者を律法の完成へと導いて下さいます。私共は律法に自らのみで向き合う時に、罪の痛みを知ります。しかし主を受け入れ、主と共に歩むときに、律法から解放され、律法の真実な喜びの中へと招かれるのです。本日の主の律法の解き明かしは、すべて律法は「愛」であることを語っています。高橋文蔵牧師も「御言葉」に生き、「律法」に生き、キリストと共に生きたのです。