2月18日(日)聖日礼拝

「聖 書」

キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、捕われていた霊たちのところへ行って宣教されました。この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。キリストは天に上って神の右におられます。

(ペトロの手紙一 3章18~22節)

説 教 「正しい良心を願い求める」

「四旬節」に入りました。来る3月31日(日)の「イースター」までの6週をキリストの受難を共にしつつ、私共が神から与えられている「命の根源性」=「闇の中から光の中へと招かれる」(2:9)に向き合いましょう。今年も又、聖金曜日(受難日)に「消火礼拝」を執り行います。共に礼拝の恵みに与りましょう。さて本日の御言葉は、今年度の5月に解き明かしをしたものです。(2023.5.14)基本となる解き明かしは、以前のものを御覧下さい。本日の説き明かしは「洗礼」を中心に語ります。「四旬節」の期間は伝統的に洗礼準備の為に用いられました。今年の「イースター」では、多くの方が洗礼を受けられることを願います。また洗礼を既に受けられている方も、この時を同じ思いで過ごし、学びの期間とすることは、自らの信仰を振り返る良い時となることでしょう。主イエスは「私共の罪」のために、ただ一度苦しみを受けられ、死に渡されました。この苦しみは、「神から離れた永遠の死」の苦しみです。主が十字架に架かられたのは「正しい良心」のためです。罪人である私共を「神のもとへ導くため」です。「正しい良心」を直訳すると、「幸福な意識」となります。意訳すると「神と向き合う幸福な意識」となるでしょう。主は正しい方でありました。ですから父なる神の愛の使命を自ら全うされたのです。その自己犠牲の愛を神は良しとされました。それゆえ神は主イエスを復活させられました。これは死への勝利宣言です。キリストは一度死なれ、陰府に下られ、捕らわれていた霊たちに向けて「勝利宣言」をしたとペトロは信仰告白をしています。ペトロは「ノアの出来事」を通して「洗礼」を語ります。「洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。」(3:21)私共は「洗礼」を受けても罪人のままです。肉の自分であることは変わりません。しかし、「霊の出発」であることは間違いありません。洗礼を通して「新生」が始まります。「塵」に過ぎない者が「霊では生きる者」とされるのです。「洗礼」で何が変わるのでしょう。「神に正しい良心を願い求める」ことができるようになります。これは前述したように、洗礼の恵みに与った者は、神に「神に向き合う魂」「神との応答の祈り」「神と向き合う幸福な意識」を願い求めることが可能となるのです。主イエスを信じる信仰が「霊では生きる者」(復活の命の者)に自分を変えたからです。私共は常に「闇から光へと」招かれているのです。