2月22日(日)聖日礼拝

「聖 書」

 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊„に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。』と書いてある。」次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。

(マタイによる福音書 4章1~11節)

説 教「“霊„に導かれて荒れ野に行かれた」

「灰の水曜日」を迎え、四旬節に入りました。四旬節第一主日には、「四十日の荒野の誘惑」が読まれます。メシアの生涯の始まりです。主は「主の洗礼」において、神の子(わたしの愛する子)としての自覚を得ます。その後、「さて」と続き、「“霊„に導かれて」荒れ野に行きます。悪魔から誘惑を受けるためです。何故、神の子であるイエスが悪魔から誘惑を受ける必要があったのでしょうか。それは「我々の救いの為」です。主の「四十日」はイスラエルの「四十年」と重ね合わせられています。その証拠に、悪魔の三つの誘惑はどれもイスラエルが経験したものであり、主が悪魔に返された御言葉も「申命記」であり、荒野の四十年を語るものだからです。主は“霊„に「導かれて」荒野に行かれました。「導かれて」は(アナゴー)です。「上に導く」の意味です。御霊は意図して、主をメシアの生涯の場所へ連れていかれたのです。その場所は、イスラエルが経験した場所であり、罪人である我々が生きている苦しみの場所です。主は神であられるので、悪魔の誘惑を全て排することができます。しかし、それでは「私達の代償的苦しみ」(十字架の苦しみも同じ)を通ったことにはなりません。主は私共と同じになられたのです。(ヘブル4:15)一つ目の誘惑は「パン」です。主は「パンの増加の奇跡」を行うことができる方です。しかし、自分に頼る事をやめ、「神の言葉を信頼」したのです。「マナ」の場面です。(申8:3)二つ目の誘惑は「マサ」(試し)です。自らの不信仰により、神が生きておられるかを試すことです。主は(申6:16)の御言葉をもって悪魔を排されました。神を信頼する一事をもって、試さなくて良いということです。三つ目の誘惑は「悪魔礼拝」です。十字架とは別の道の繁栄をもって人々を救えるのではないかという誘惑です。主は(申6:13)をもって、悪魔を排しました。この御言葉は「十戒第一戒」です。まことの神のみを神とせよということです。まことの神を礼拝する道が、「まことの命への道」であると宣言されたのです。(退け、サタン)主は私共の経験する悪魔の誘惑(この世の罪人の苦しみ)をメシアの力を用いずに、私共と同じ苦しみを経験しながら、「神の子」メシアとして勝利されたのです。この勝利は「神の子」である私共キリスト者の勝利も語るものです。神の霊の命を生きる幸いを得た私共は、「神の前に立つことができる」「美しい人生を歩む」「愛を生きることができる」幸いを生きます。私共は勝利者の主と共にいます。今日から始まる荒野の四十日を「誘惑に勝利する」時として過ごしましょう。