「聖 書」
わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって聖なる御名をたたえよ。わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。主はお前の罪をことごとく赦し、病をすべて癒し、命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け、長らえる限り良いものに満ち足らせ、鷲のような若さを新たにしてくださる。
主はすべて虐げられている人のために恵みの御業と裁きを行われる。主は御自分の道をモーセに、御業をイスラエルの子らに示された。主は憐れみ深く、恵みに富み、忍耐強く、慈しみは大きい。永久に責めることはなく、とこしえに怒り続けられることはない。主はわたしたちを罪に応じてあしらわれることなく、わたしたちの悪に従って報いられることもない。
(詩編 103編1~10節)
説 教 「病をすべて癒す」
詩篇103編は「福音的な賛歌」と言われます。罪人に対する神の恩寵が豊かに歌われているからです。「ダビデの詩」と表題が記されていますが、個人的な詩ではなく、全被造物の「贖い」をテーマに歌われていると解するのが正しい解釈です。この詩編をもとに讃美歌10番は作詞されていますが、個人的な詩と言うよりは、キリスト者にされた者の喜びが歌われていることが理解できるでしょう。では「キリスト者の喜び」とは何でしょうか。それは「贖い」への感謝です。本日の御言葉では具体的に、贖いのことを「病をすべて癒し」(103:4)と記されています。私は「病」など罹っていないと言われるでしょうか。「病」とは何でしょうか。ここに記される「病」とは、魂の空白のことです。心の痛みのことです。「罪」の支配に押しつぶされている状態のことです。病は放置していては癒されることはありません。主は罪人と共に食事をしている席で、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。」(マタイ9:12)と言われました。私達は神との関係において、人との関係において「破れ」の中にある罪人であるという自覚を持つ必要があります。自分のありのままの姿(病=罪)を認めるところから、救いへの道のりは始まるのです。では本日の御言葉では、その「ありのままの姿」とは何を語っているのでしょうか。私達を造られた神は「悪い者にも良い者にも雨を降らせて下さる主」です。しかし私共は神が与えられた「自由意志」を用い「神などいない」と背信を生きる者です。本日の御言葉では虐げの中にいたイスラエルの人々がモーセに導かれて「出エジプト」をしたにも関らず、度々、神に不平を言い、金の子牛を造って「背信」を生きたことが述べられています。しかし、神は「わたしたちの悪に従って報いられない」「慈しみと憐れみの神」であり、イスラエルの人々を救いに導き続けたのです。この神の恩寵を、イスラエル人は「わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。」と告白したのです。「慈しみと憐れみの冠」の「慈しみ」はヘセド(絶えることのない愛)です、「憐れみ」はヘーン(無差別な恵み)です。ヘセド+ヘーンがグレースとなり、グレースは「神の恩寵」と解されるようになりました。キリスト者は如何なる病(罪)からも癒され、神の贖いを経験し、「神の恩寵の冠」を被るのです。そして死から生き返り「新たなグレースな生」(新生)を生きるのです。この神の愛こそ「汝の敵を愛せ」「七の七十倍赦せ」の主の真実な言葉の意味です。