「聖 書」
「最初のアダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。
(コリントの信徒への手紙 一 15章45~49節)
説 教 「最後のアダムは命を与える霊となった」
イスラエルから帰って来ました。皆様の祈りに感謝します。イスラエルの現状は未だ平和の途上です。皆様と共に世界の平和の為に神に祈りを捧げましょう。(祈り)さて本日の御言葉は私共が「まことの平和」を実現するために欠かすことのできない命題です。全ての人が主イエスを通して神に立ち帰り、永遠の命を生きる(神の愛を生きる)こと。これが「まことの平和を得る」唯一の道です。私共の「争い」の原因は「罪」(シン)にあります。自分の問題の解決を「責任転嫁」(誰かのせいにする)ところにあります。本日の御言葉も又、その命の本質を衝いています。本日の御言葉は35節から始まる「復活の体」の説明の箇所です。コリントの教会の人々の一部に「死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか」と復活に対する「懐疑」を抱く者たちに、パウロが答える箇所です。パウロ先生は「愚かな人だ」と即答するのです。私は以前に、愛の使徒である先生の言葉にしては配慮の欠ける言葉だなと思っていました。しかし文脈が理解できると、当意即妙の答えだと理解できました。先生の語る「愚か」は知識や経験の不足を衝く言葉ではありません。この「愚か」は信仰の「的外れ」(罪:シン)を衝く言葉です。私共は信仰を得てもなお、「的外れ」の質問をし続ける者です。この復活の「懐疑者」は復活を見たり、知識を得ることが出来たら、復活を理解できると思っています。復活は知識で理解できるものではありません。復活は「神の支配の領域」です。私共は「ただの種粒」です。(15:37)直訳すると「裸(現実の人間の姿)の種粒」の意味です。私共は「現実」を生きています。人としての限界がある命を生きているのです。私共は神のように「全てを知る者」ではありません。それでいいのです。御言葉は語ります。「最初の人アダムは命のある生き物となった」この意味は「永遠の命(神の霊)を生きる者となった」です。現実に生きる私共は死んで焼かれて終わる命(ビオス)だけではないと聖書は明確に語っています。しかし神から離れて「罪」に生きるなら、「神の霊」はあなたにはありません。「自然の体があり、次いで霊の体」があるのです。罪ある私共に、主は来て下さいました。「最後のアダムは(永遠の)命を与える霊(プネウマ)となった。」私共は「霊の祝福」を生きることができます。神が種を「蒔き」、神が「復活」させて下さるからです。私共が「霊の祝福を生きる」とき、私共は「天に属し」ます。御子の「似姿」とされます。その全ては「神の業」なのです。全てを委ねる道を行きましょう。