2月25日(日)聖日礼拝

「聖書」

これらのことの後で、神はアブラハムを試された。

神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、 神は命じられた。

「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」

次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。…

神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。 そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。

そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、 御使いは言った。

「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」…

(創世記 22章1~18節)

説 教 「アブラハムを試された」

本日は「イサクの奉献」です。本日の物語はアブラハムは「神に対する信仰によって救いを得る全ての者」の「予型」であり、イサクは「キリスト」の「予型」を示すものであると言われてきました。旧約聖書中、最も美しく、最も感動的な物語であるとも言われます。皆様は、どのように受け取られるでしょうか。アブラハムは「信仰の父」です。本日の御言葉は私の信仰とはかけ離れていると思われるでしょうか。本日は、御言葉を通して信仰と神の恩寵について悟りを得たいと願います。今、本教会は財政的な危機を迎えています。主は牧師である私に金銭的に収入を得る為に、「働くな」と言われます。神懸かりを信じて、待てと言うことなのでしょうか。それは違います。主は、私の心の中を探っておられるのです。本日のアブラハムは最愛の息子である独り子を何故、奉献できたのでしょうか。イサクは神から与えられた「約束の子」なのです。御言葉は語ります。「神はアブラハムを試された。」本日の御言葉は「信仰の試練」なのです。アブラハムは心の中を探られたのです。私共の前には「神の摂理」があります。その「摂理」の表面に見えるものには「矛盾・不合理・不条理・苦しみ・困難・痛み」などもあります。私共は常に「信仰の試練」を前にしています。私共は、どのようにして信仰の生涯を乗り越えて行けば良いのでしょうか。それは従うことです。「摂理」(プロビデンス)の原型は「主の山に、備えあり(イエラエ)」であります。私共が、自己中心(イサクやサラも自分自身)に死ぬことを通して、神の声に聴き従うことを通して、「祝福」は訪れます。本日の御言葉は、その祝福の基を語っているのです。本日の御言葉は語ります。「これらのことの後で」神から祝福を受け続け、問題は解決をし、という順風満帆の時の「後で」という意味です。本日語られた「燔祭」は(オーラー)で「上げる」の意です。生贄を焼き尽くし、煙を上げ、神に全てを捧げる思いを届けて、神に喜んでいただくのです。しかし神が本当に喜ばれることは、「あなた自身を献げる」ことです。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊、打ち砕かれ悔いる心」なのです。(詩51:19)私を献げましょう。神は独り子を献げられました。私共を救う為に神は「痛みを経験され」ました。その「神の痛み」ゆえに、私共キリストを信じる者は救われます。ここに神の恩寵があります。神は、待っておられます。あなたが信仰の従順によって祝福を受けられることを。