2月27日(日)聖日礼拝

「聖 書」

イエスはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」

「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。
(ルカによる福音書 6章39~45節)

「見えるようになって」

本日の御言葉は「平地の説教」の結びです。「平地の説教」をまとめて語ると、「自己中心を取り除き、神の言葉に聴き、神の「祝福」を選び取る行いをしなさい」となります。一言で言うならば、「御言葉を聴いて行う者」になりなさいということです。このことは人(自分)には難しいことです。であるので、主は私共に「たとえ」(パラボレー)で教えられました。主が語る「たとえ」は「神の奥義」が示されています。ですから冒頭の「盲人」の言及は差別意識ではありません。主は盲人牧師の熊谷先生の「道案内」の素晴らしさを喜ばれる方です。主は「御言葉」を聴き、弟子となる者たちに福音の「道案内」を期待しているのです。しかし「道案内人」が進む道が見えていない者であるなら、案内することはできないでしょう。しかし人は神の言葉(福音)を前に、自分が見えていない者であることを自覚していません。目の中の「丸太」が邪魔をしているのです。「丸太」は(ドコス)です。「梁」のことです。つまり自分の中心を支えるものである「自己中心」のことです。それに比して「おが屑」(カルフォス)は「微細な木片」のことであり、「微細」を表しています。私共が「御言葉を行う」ことができない訳は「自己中心」なのです。しかし「丸太」を取り除く方法があります。主に従い続けることです。私共は、どんなに修行をしても「主イエス(師)」になることはできません。ですから主イエス(師)に従い続けることが大切なのです。主に従い続ける時に、私共には「霊の満たし」が注がれていきます。私共は「野ばら」は「野ばら」のままで変わることはありませんが、「豊かな香りを放つ者」とはされていくのです。私共を「善い実」を結ぶ「善い性質の木」として下さるのです。私共が「御言葉を聴いて行う者」とされていく時、私共は「深く」(バッフロス)霊的に豊かな恵みに浴し、「岩の上に土台を置いて家を建てた人」となり、如何なる困難の時を過すとも、神に目を注ぎ、常に喜び、常に神に感謝を捧げる「堅固な人生」を得る者とされます。私共は「愛に生き、神と人と自分が祝福を生きる幸い」を得るのです。20日(日)に肱黒兄弟が召天されました。兄弟と死の2時間前に共に手を握り祈りました。兄弟の最期の言葉は、手を合わせ、「感謝、ありがとう、ありがとう。」でした。人の口は心からあふれ出ることを語るのです。私の「おが屑」は消え去りました。霊の満たし(愛)がありました。