2月28日(日)聖日礼拝

「聖 書」

六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセとともに現れて、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。

(マルコによる福音書 9章2~10節)

説 教 「これに聞け」

受難節第二主日を迎えました。マルコは福音書の冒頭に「神の子、イエス・キリストの福音」と記しました。主イエスは公生涯に入られ、人々に福音を宣べ伝えられました。福音は人々に、どのように受け止められていったのでしょうか。このことは何週かに亘り、解き明かしをしてまいりました。先週では、主は「その人たちの信仰を見て」、「あなたの罪は赦される」と言われました。そして奇跡(いやし)が示され、それを見た人々は、「神を賛美した。」と記されていました。主イエスの「宣教」を信じ、受け入れ、その「神のしるし」に神を拝した者が表れてきた証しです。では、福音は人々に受け入れられたのでしょうか。それは否です。「キリストの福音」の受け入れは「道半ば」です。「キリストの福音」は「苦難の僕(メシア)」のことです。まだ福音書の物語は始まったばかりなのです。本日の御言葉は、その「キリストの福音」の神秘を如実に語っています。本日の御言葉は、「六日の後」と記しています。「仮庵の祭り」の六日後のことであり、出エジプト記24章16節の「雲」(神の現臨)を示しています。御言葉は、「主の変容」の場面です。この場面の意味は何を語っているのでしょうか。弟子を「連れて」(パラランバノー)、「高い山に登り」、彼らの目の前で、「姿が変わる」(メタモルフォオー)。これは秘密のベールが取り除かれるということが意味されていることです。弟子達は「主の変容」を見た後に、雲の中(神の現臨)から「これはわたしの愛する子。これに聞け。」の声を聞きました。「これは」と言われている以上、この声は、イエスに言われた言葉ではなく、弟子に直接言われた言葉です。この「変容」の意味は文脈から解さなくては理解できません。本日の御言葉は、先に、「ペトロの信仰告白」「イエスの受難予告」「ペトロのキリストの福音の誤解」と話が続き、主の言葉、「わたしの後に従いたい者は、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と続く場面です。神は福音を理解できない弟子達に「変容」を通して、主イエスが「神の栄光」そのものであることを示されました。そして主が語られる言葉が「聖書」(モーセとエリヤ)であり、メシアが、「苦難の僕」(イザヤ書53章)であることを啓示されたのです。主は本日のことを「話さないように」命じられました。誰とも話さず、神と個(子)として深く交わり福音を受け止め、神に聴き従いなさいと言われたのです。