「聖 書」
もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです。では、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです。わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。 弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。 福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。
(コリントの信徒への手紙一 9章16~23節)
説 教 「わたしの報酬」
私共は福音の中を生きています。神様に感謝をしましょう。主の救いに与り、福音に生きている者は「神の言葉を授かり」ます。世界に「神の支配(天国)」が広がりゆくためです。本日の御言葉の如くに、パウロ先生も又、神の言葉を授かり、福音に生きられました。福音に生きられたパウロ先生は18節において、「わたしの報酬とは何でしょう。」と言われています。福音を語ったゆえの報酬です。先生の答えは、「権利の放棄」でした。この意味は、何を語っているのでしょうか。ここに語られた「権利」(エクソシア)は、9章の冒頭に記された「使徒の権利」のことです。この「権利」は金銭を得ることだけを語るものではなく、「権威」や「支配」を意味する言葉です。パウロ先生の語る「権利の放棄」は、使徒としての権威の笠を着ないという意味です。そして、それが自分が福音を語る「報酬」(ミスソス)であると言われました。先生は「使徒の権威」を持っているにも関わらず、放棄しています。いえ、放棄しているように見えるのです。そんな笠を用いなくとも、福音は燎原の火の如くに燃え広がりゆきます。ここに語られている意味は、非常に大切なものです。先生は続く後節において、(9:23)「福音のためなら、どんなことでもします。」と語られ、その福音のために為されたことは、「すべての人に対してすべてのものになりました」であると述べられています。すべての人に対して「すべてのものになる」とは如何なることか。ここで用いられた「~になる」は(エゲノメエン)で、(フィリピ2:7)「(主は)神の身分でありながら、人間と同じ者になられた」の「なられた」と同じ言葉、同じ意味です。神は人に「共喜共泣」((ローマ12:15)されます。「インマヌエル」とは、そういう意味なのです。具体的に語りましょう。あるハンセン氏病院に、若い牧師が訪問しました。心の中には恐れがありました。そのことは心の中に押し留めながら礼拝の時間が来ました。皆が次々と集まってきました。集まる人々の病の姿を見て、緊張しました。そこに一人の老女性宣教師が一人のハンセン氏病の方の体を抱きかかえながら、にこやかに微笑みつつ、その方と共に、席に着きました。若い牧師は自分に恥じ入ると共に、まことの生きた信仰に出会ったことに感謝しました。この宣教師の報酬とは何でしょうか。報酬は神御自身です。神が私と今、共におられるという喜びです。パウロ先生も又、同じです。権利を放棄してなお「満ちあふれる神共におられる喜び」です。