「聖 書」
神よ、わたしを憐れんでください。御慈しみをもって。深い憐れみをもって背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い罪から清めてください。
あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく、あなたの裁きに誤りはありません。
わたしは咎のうちに産み落とされ、母がわたしを身ごもったときも、わたしは罪のうちにあったのです。あなたは秘儀ではなくまことを望み、秘術を排して知恵を悟らせてくださいます。ヒソプの枝で、わたしの罪を払ってください。わたしが清くなるように。わたしを洗ってください、雪よりも白くなるように。喜び祝う声を聞かせてください。あなたによって砕かれたこの骨が喜び踊るように。わたしの罪に顔を向けず、咎をことごとくぬぐってください。
神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。
(詩編 51編1~14節)
説 教 「新しく確かな霊」
本日の御言葉は「受難節第一主日」でよく用いられるものです。受難節に入り、「克己と節制」のうちに、イースターに向けて心備えをするのですから、「罪」に目を向けることは当然のことと思われます。しかし本日の御言葉の冒頭に目をやるならば、「賛歌」と記されています。「悔い改めの詩篇」と呼ばれる本詩が何故、「賛歌」なのでしょうか。それは罪の告白をするダビデが、既に確信を得て、神を讃えているからです。罪の告白と共に「初めの第一歩」を歩む事ができているからです。その答えは、「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。」(51:19)です。私共も又、毎年「受難節」を迎えます。自分の「罪」に向き合い、打ち砕かれた霊をもって、神に向かい合いましょう。そのことが「新生への道」の第一歩です。「受難節」を迎える私共は、罪に苦しむ演技をするのではありません。まことに自分の「深い罪」を認めるのです。そして、その「ありのままの姿(原罪)」にて神に立ち帰り、「神に詫びる」のです。ダビデは聖書の中で特に許されない罪「姦淫と殺人」を犯しました。(サムエル記下11章)しかし彼は預言者ナタンに叱責されるまで、罪だと気づいていなかったのです。彼は晩年、「気の緩み」があったと思われます。しかし彼は罪に気づき、罪に苦しみました。遂に神に「悔い改めの告白」(詩篇51編)を為しました。日本人に、本日語られる「罪」が理解しにくいと言われる方がおられますが、日本人も又「恥の文化」と言われると共に、「お天道様に顔向けできない」という言葉を発していた民です。宥めの供え物をしても賠償をしても、そこに心がなければ相手に「悔いる心」は伝わらないでしょう。相手に心を伝えるためには自分が変わらなくてはならないのです。「改悛の心」が大切なのです。神は改悛の心をもって、御自分に立ち帰ってくる者を「赦し」、「新しく確かな霊」を授け、清い心を創造(パーラー)して下さいます。この命を「新生」と呼ぶのです。神は改悛し聖霊の働きにて「新生」された私共を喜んでくださいます。なので本日の御言葉は「賛歌」なのです。「受難節」は罪の事を思い巡らせる時ではありません。イースターに向けて、神の贖いの尊さと、罪が贖われ、新しい命を生きることができる幸いを感謝する時です。その感謝を本物にするために、自らの「罪」に「悔いし砕かれた魂」をもって向き合う必要があるのです。神はどんな罪でも「すべての罪を贖われる主」です。共に感謝を生きましょう。