「聖 書」
六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を見上げると、イエスのほかにはだれもいなかった。
一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。
(マタイによる福音書 17章1~9節)
説 教「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」
本日は「荒野の40日」から「主の変容」の場面に移ります。どちらも神の愛が示されている場面です。それと共に「十字架の深み」が示されている場面でもあります。本日の御言葉は「六日の後」と始まります。(出エジプト24:15)のシナイ山の出来事と重ね合わせられています。モーセは終末のメシアの「予型」であると言われます。マタイはイエスをモーセと重ね合わせ、イエスをメシアとして提示しているのです。それも「十字架の死と復活」の栄光と「主の変容」を重ね合わせています。主は何故、弟子たち三人だけを連れて、山に登られたのでしょうか。それは御自身の「まことの姿」を見せるためでした。「高い山に登られた」を直訳すると「彼らだけを高い山に運び上げた」(アナフェロー)となります。その理由は前節での出来事の「ペトロ、信仰を言い表す」「イエス、死と復活を予告する」があり、弟子たちの十字架への無理解があったからです。神は弟子たちを霊的に引き上げるために、山に登らせたのです。彼らが見た主の姿は「神の栄光」が輝いていました。そこには、モーセとエリヤがいました。聖書を代表する者であり、終末のメシアの予型の二人です。神はイエスが神であり、メシアであることを示されました。ペトロが「仮小屋」を建てましょうと言った意味も理解できます。「仮小屋」は(スケーノー)「幕屋」で「臨在」を表します。ペトロは神の臨在の素晴らしさを留めおきたかったのでしょう。しかし臨在は後に消えました。この後に続く「山を下りる」は(カタバイノー)は現実の「下へ」戻っていくことを表しています。本日の御言葉は何を語っているのでしょうか。神が弟子たちのために「主の変容」を見せても、弟子たちの十字架への無理解は変わらずにあった。しかし十字架の死と復活の出来事が彼らを変えた。聖霊の内住を通して彼らは悟ることができた。あの「主の変容」の輝きと「十字架」の栄光は同じものであったことを理解することができたのです。主は変容の後、「誰にも話してはならない」と言われた。霊の世界が理解できない者は間違ったことを語るからです。主の十字架は惨めなものです。私の姿が惨めであるからです。主は惨めな私のところにまで来て下さった。私の代わりに十字架を負って下さった。私共も「私の十字架を負う」のです。世の苦しみの中にある人々と同じ者となり、その人の十字架を代わりに負うのです。主はそうして下さった。神の聖旨であったからです。神の聖旨は常に人の救いであり、十字架の愛なのです。十字架の愛は神の栄光であり、神の御臨在です。