「聖 書」
では、何と言われているのだろうか。
「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」
これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。
(ローマの信徒への手紙 10章8~13節)
説 教 「信仰の言葉」
先週に「灰の水曜日」を迎え、レント(受難節)に入っています。主の御苦しみの愛を覚え、「克己と節制」と「愛の実践」を行う時です。私は、ここに「行う」と記しましたが、本日の御言葉は、「信じる義」の大切さを語っています。信仰者にとって、「行い」と「信仰」はどちらが大切なのでしょうか。それは勿論、「信仰」です。イエス様の当時、イスラエルの人々は「律法の行いの義」を求めました。そのような信仰であったので、イエス様の到来は「つまずきの石」となったのです。「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない。」(イザヤ28:16)何故、イエス様は「つまずきの石」だったのでしょうか。それは、「信仰の言葉」を持っていたからです。聖書の神の言葉を文字通り、「御言葉(神の言葉)」として信じ、受け入れ、「御言葉」を、そのままに生きていたからです。私達、「世の人」はどうでしょうか?聖書の言葉を文字通り信じているでしょうか。私共はキリスト者です。イスラエルの人にとって「つまずきの石」であった主は、私共には「これを信じる者は、失望することがない」お方です。私共も又、信仰により救いに与ったものとして、聖霊に来ていただき、聖霊の働きにより、聖書の言葉を「神の言葉」として、受ける幸いを得ています。その幸いは、口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じたからです。しかし、このことすらも「聖霊の働き」なのです。神は全ての人を救おうとされています。私共は「神の国を広げる」ために、先に選ばれたに過ぎません。このことは恵みの何物でもありませんが、私共が、その恵みを忘れた時、悪魔の支配は私共にも及び、福音の種を蒔く者が、人々の信仰の妨げの石になることもあります。ですから、キリスト者は常に「レント」の時の「主の御苦しみ」を思い起こし、自らの罪を悔い改め、常に主に立ち帰らなくてはなりません。主の十字架を「私の十字架」として、受け取り続けることが必要です。そのことを悟ることができたならば、「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」(申命記30:14)の御言葉が、自らの信仰を奮い起こすものであることが理解できるでしょう。この「信仰の言葉」を得るとき、私共には神の力が強く働きます。「愛の共同体」を為す者として、悪魔の支配に打勝ち、人生に勝利を得て、悪魔の支配にある者に「福音の力」を分けていくことのできる「愛の実践者」として真実に成長していくのです。