3月12日(日)聖日礼拝

「聖書」

しかし、民は喉が渇いてしかたがないので、モーセに向かって不平を述べた。

「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」

モーセは主に、「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」と叫ぶと、主はモーセに言われた。

「イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持っていくがよい。見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」

モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試したからである。

(出エジプト記 17章3~7節)

「マサとメリバ」

先週に「アブラハムの召命」の御言葉を通して、「アブラハム契約」の真実、「神の無条件契約」について学びました。また、この契約はイスラエルの「選民」を語ると共に、私共異邦人に及ぶ「すべての民」に対する「神の祝福(救い)」を約束していることを知りました。アブラハムに続くヨセフまでの生涯が「信仰者の道程」「キリスト者の生涯」を語る「予型(テュポス)」であることを思う時、アブラハムが示した「祝福の源」は、私共キリスト者の「証し(福音の喜び)」と同じものです。アブラハムは「満ち足りて」、召天しました。信仰者のあるべき姿です。私共もまた、同じ道を行きたいと願います。では、キリスト者の生涯を全うするためには如何なることを知っておかなくてはならないのか。そのことが、本日の御言葉に示されています。本日の御言葉は「マサとメリバ」です。「マサからメリバ」と語るときは「荒野の40年」を示します。「マサ」は荒野の初期です。「メリバ」は後期の出来事です。本日の御言葉には二つの出来事が重ね合わせられています。イスラエル人は神に「叫び」を上げ、その「声」が聞き届けられました。出エジプトの出来事は「奴隷からの解放」を示しています。別の言葉で語るならば、神の民の「霊的再出発」です。人間の自由と責任応答が担保されたのです。神との「契約関係」に戻された民は、荒野の不自由な生活に「不平」(つぶやき:ルーン)を言います。「喉(ネフェシュ:魂(心))が渇いて仕方がない」「渇きで殺すのか」この不平は生存的権利の主張ですが、「魂の渇き」のことも語っています。(ヨハネ4:14「主=永遠の命に至る水」)イスラエル人は「契約の民」の生涯を歩み始めたにも関わらずに、不信仰の民なのです。彼らの不信仰は約束の地を踏むことのないものにしました。約束は「次世代」に継がれたのです。「マサ」は「試し」です。「主は我々の間におられるか」と試した行為です。これは自己を中心におく、不信仰です。「メリバ」は「争い」です。ここではモーセと民が争いました。この意味は預言者の言葉(神の言葉)に信頼を置かない(畏れない)ことを語っています。(民数記20章)「メリバの水」のところでは、モーセが「神を聖とせず」岩を二度打つことにより(傲慢の罪)、約束の地に入ることができず、最期を迎えました。私共は罪人であることを知りましょう。しかし神は私共を離れません。(一コリント10:4)罪を知り、救いを知り、神に感謝します。