「聖 書」
イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくていいように、その水をください。」
(ヨハネによる福音書 4章5~15節)
説 教 「わたしが与える水」
受難節第三主日を迎えました。受難節を過ごす中で、自分の罪と向き合う時を与えられています。聖書の語る「罪」は「的外れ」の意味です。本来、人間が与えられた豊かな「生」を、「死」の方へ誘いこむものが「罪」です。「原罪」(シン)です。私共キリスト者は「御言葉」に出会い、我が「罪」の悔い改めを為した者です。受難節第一主日の時に詩編51編より、ダビデの罪の告白を聞きました。「罪の告白」は「新生」への出発であり、この詩編は「賛歌」であると語りました。私共も又、正しいお方に悔い改めを為すならば、「新生」の出発を為す事が出来ます。では「正しいお方」とは誰でしょうか。それは、主イエス・キリストです。主は世の始まる前からおられた方です。その信仰は旧約聖書に記された「岩」に示されています。(民数記20章、詩編95編、一コリント10章)本日の御言葉は私共を「岩」である「正しいお方」に向きを変えさせるものです。本日の御言葉を御覧下さい。水を所望された主の物語が、いつのまにか「生きた水」(霊)の話になっています。「岩」に示された信仰がヨハネ書にも見られるのです。ヨハネは「霊の洗礼」の意味をここで語ろうとしています。その意図に沿い本文を読むならば、本日の物語はよく分かります。主は、あえてサマリアに行かされました。神の御旨であったからです。主は、皆の重荷を負い、疲れていました。「井戸」(ペゲー=湧き水の泉)の傍に座られました。その井戸は「ヤコブの井戸」でした。12部族の父の名前です。主は関係が断たれていたサマリヤの女に水を求めました。飲み物を共有する意味を示しています。(隔ての中垣を取り除く)主の言葉は彼女に「魂(喉)の渇き」を思い起こさせるものでした。しかし彼女は「この井戸(フォレアル=ためる井戸)は」と言い、「井戸は深いのです」と返しました。「渇き」の深さを語る表現です。主は「この水」は、すぐに渇く水であると言われました。しかし、「わたしが与える水」は決して渇かないと言われたのです。主はこの後、彼女の重荷を語られました。五人の夫のことを指摘されました。サマリアの人々が雑婚の民となり、五つの偶像を拝していたことが語られている意味です。彼女は真実に自分を救う神から離れていたのです。主は罪に目を向けさせ、救いに至る真実な神を示されました。真実な神は主御自身です。主こそが、私共の罪の告白を受け入れ、赦し、永遠の命に至る水を与えて下さるお方です。私共は受難節を真実な時とする為に、主に告白を為し、「湧き水」を戴きましょう。