「聖 書」
イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
(ヨハネによる福音書 9章1~41節)
説 教「こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」
本日は「日曜聖書集会」に招いて戴き感謝を致します。本日は是非、「わたしを活かす熱い命に触れて」いただきたいと願います。さて、本日の聖書の言葉は、「生まれつきの盲人をいやす」です。12節まで読んで頂きましたが、本日は41節までの全文(別紙)を通して、私の「証し」をも重ねて、聖書の解き明かしを致します。プリントの全文を読む限り、不思議に思うことがあります。主の奇跡ではありません。主の奇跡は不思議ですが事実なのです。私が言う不思議は、生まれつきの盲人が目が見えるようになった事実が語られているのに、誰も喜んでいないのです。本人すらもです。冒頭の出来事を読む限り、盲人は主イエスに「癒して下さい」とも言っていません。この物語が「癒し」がテーマではなく、「信仰告白」が主題であることが、その理由です。本日の盲人は、主に癒された後に、色々な処を通されて、「イエスの見方」に変化が生じていったことが記されています。盲人はイエスの事を問われるたびに、「イエスという方」「預言者」「神のもとから来られた方」「主(神)」と変化してきました。最後の「主よ、信じます」の場面ではイエスに「ひざまずいて」います。この言葉は、ギリシャ語で(プロスクネオー)です。「地面に向かって接吻する」の意味で、神を礼拝する行為です。癒された盲人は主イエスと言う「人の子=キリスト」(神)に出会い、信じたのです。この盲人の信仰体験は、私にはよく理解できます。私は複雑な家庭に生まれ、「愛を求める少年」でした。盲人も又、寂しい人生を送ってきたことが分かります。皆さんも「愛のない世界」は想像できると思います。盲人は何故、イエスを「主」と告白できたのでしょうか。それは「魂の喜び」と「平安」を得たからです。私は彼の思いを代弁できます。主を信じることを通して得られる「聖霊体験」と「まことの魂の平安」は何物にも代えられない「霊の賜物」です。私は本日、皆様にこのことをお伝えする為に来ました。私も長く社会で働いてまいりました。多くの人々が、「自分は見えている」「自分は分かっている」と言いながら、救いを求め、この世と戦い、真の安らぎと平安を求めながら生きています。「魂の平安」は主イエスにあるのです。神との関係の回復にあるのです。私は全てを捨てて「召命」に応えました。神の答えは「破産」でした。私は全てを失いました。しかしそれは目に見える物です。私は何も失っていませんでした。私の前には「魂の平安」「人々の救い」、「神の業」神の栄光を見る喜びを得ました。あなたも魂の救いを得て下さい。