「聖 書」
この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次にように書かれている言葉が実現するのです。
「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」
死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちは勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。
(コリントの信徒への手紙 一 15章54~58節)
説 教 「動かされないようにしっかり立ち、主の業に励みなさい」
「復活の体」の疑義に対する「結語」の箇所です。私共は「メメントモリ」に生きていません。このラテン語の「死を想え」「死を忘れるな」の言葉は修道院にて交わされていた「挨拶の言葉」です。この意味は「自分がいつか必ず死ぬことを忘れてはいけないという警告」であり、「死を意識することで今を大切に生きよ」と解釈することが通例です。ですから以前、同じ御言葉で説教した時、ターシャー・デューダー女史の言葉の「人生は短いから、不幸になっている暇なんてないのよ。」「幸福とは心が充たされること」を用いて、キリスト者の生について解き明かしを致しました。本日は、そこより進んで参ります。修道院の挨拶の言葉は(メメントモリ)と申し上げましたが、この挨拶は本来、どの意味で交わすのかと言うならば、「霊的な成長を促すために」用いていたのです。もう一度申します。私共は「メメントモリ」に生きていません。言葉を変えるならば、「死に対する備え」をしていないということです。死を覚え、「大切に今を生きる」は分かるのです。「死を覚える」は本当に「死に向き合う」の意味です。私共は死に向き合いながら生きることをしません。それは何故か?死に対する「解決の答え」を持っていないからです。パウロ先生に「復活の体」に疑義を呈した者たちもまた同じでした。ですから先生は「復活の体」の説明の最後に「最も大切な答え」を述べたのです。「復活の体」とは「死への勝利」であるということです。あなたに「その信仰」があるかということを突き付けておられるのです。(勿論、愛の故です。)では「死に対する備え」とは何ですか。私共は死だけは皆、平等です。科学、哲学、財力、権力、知識、如何なるものをもってしても、私共の墓場の先まで責任を持つことはできません。では信仰があれば大丈夫でしょうか。心許ない人はいませんか。パウロ先生は死を恐れ、朽ちていくしかない「ただの種」の人間が「朽ちないもの」(復活の体)を着る時、「死への勝利が実現する」(イザヤ25:8)と言われたのです。これは具体的な事です。私共は「動かされ続ける」人生でした。人の言葉に動かされ、自分の罪に動かされ「どうせ自分は…」「私は赦されない」と思い込み、生きてきました。先週、私は「復活」の全てを知識で知ることはできない。ただ神に委ねようと申しました。しかし「結語」は「あなたがたは知っている」なのです。私共は知っています。神が私を救って下さった事を。私に新しい命を与え、「使命と責任」「神の計画」が与えられている事を。「主の業に励む」者は既に勝利者です。