3月21日(日)聖日礼拝

「聖 書」

「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」

(ヨハネによる福音書 12章20~33節)

説 教 「わたしのいるところ」

受難節の佳境に入りました。次週は「棕梠の主日」を迎え、愈々「受難週」に入ります。本日の御言葉は、その直前に備えるに相応しい「神の言葉」です。本日の御言葉は有名な「一粒の麦」の箇所です。「一粒の麦」を中心とする解き明かしは、以前のものを参照下さい。(2012.3.25、2015.3.22)本日の御言葉で主は、「人の子が栄光を受ける時が来た」と言われました。これは「わたしの時はまだ来ていない」(2:4)との対比です。主は入城を果し(ゼカリヤ9:9「永遠の王」)、「時」を迎えられました。「受難の時」です。この「時」は「人の子の栄光を受ける時」です。(原意は、が→の、となっています。)メシア預言の成就です。では、この「時」は何の時なのでしょうか。それは「一粒の麦が死ぬ」時です。主は「自分の命を愛する者は、それを失う」と言われました。ここで語られる「命」は(プシケー)です。「自然な命」のことです。後節で語られる「わたしは心騒ぐ」の「心」も同じ言葉が用いられています。そして続けて、「この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」と言われました。自分の命を憎む人は、(プシケー)の命が(ゾーエー:永遠)の命に至ると言われています。「自分の命を憎む」とは、自分の思い通りに生きたいという自己中心の命(罪)を憎むということです。この命(罪)の先は命の喪失です。神は被造物が命を失うことを望まれません。神は愛の神であり、義の神、聖なるお方です。神は愛ゆえに、独り子を私共の罪の贖いとして世に与えられました。私共の罪を問わないためです。主は御自分の「命」プシケーを憎み、一粒の麦となり、私共に永遠の「命」ゾーエーの道を用意されました。私共は、ただ恩寵を信じるのみです。この「恩寵」は神の栄光です。主が十字架の前をして「心騒ぐ」と為られたのは、単に、死への恐怖ではありません。全被造物の「罪と死の重荷を担い切る覚悟(極みの愛)」のゆえです。私共は全ての者が神の恩寵に感謝を捧げましょう。ヨハネは冒頭にギリシャ人を登場させ、主の贖いが「すべての民族」のものであることを告げました。この神の「極みの愛=十字架」は、それを信じる者に、「神の国の住まい」を与えます。この住まいは「わたしのいるところ」(別紙参照)です。主は「わたしの父の家には住む所がたくさんある」と言われました。この住む所はモネーで、「一緒に住む」という意味です。主は家を用意されたのです。