3月22日(日)聖日礼拝

「聖 書」

あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。―光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。―何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。

「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」

(エフェソの信徒への手紙 5章8~14節)

説 教 「光の子として歩みなさい」

子ども讃美歌の「ひかりひかり」は、本日の御言葉の「光の子として歩みなさい」をもとにした作詞です。その歌詞の中で「光の子」は「明るい子」「元気な子」「正しい子」ですと歌われています。私も日曜学校で子ども達とよく歌いました。その時に理解していた捉え方は、光である主を信じた私共が「光となる」ということです。これはこれとして決して間違いではありません。しかし、それならばパウロ先生は「光として歩みなさい」と言ったのではないでしょうか。パウロが語った言葉は「光の子のように(~のように:ホス)」歩みなさいということです。この意味は正しく知る必要があります。この意味を正しく捉えるために、「光」「神の子ども」の聖書の箇所に聴きましょう。「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」(ヨハネ1:12)「あなたがたは世の光である。」(マタイ5:14)如何でしょうか。この御言葉を知る者は、「光」である主イエスを信じ受け入れる者が「神の子」とされ、「世の光」とされるという現実を知っています。主イエスを信じる私共が「神の子」なのです。そして神は光であり、愛ですから、私共は「光の子」なのです。私共は神の「子ども」であるということが肝要なのです。私共は年を経てからも、「やっぱり、あなたは「おはえ姉さんの子」やねぇ。」と言われることがあります。この言葉は、私の母「おはえ」の姿によく似てきたの意よりも、その「立ち振る舞い」や「行動」「言葉」が、母によく似ているの意味でしょう。私は母に愛されてきました。父に愛されてきました。私は神に愛されてきました。ですから両親を裏切る生き方はできません。神に背を向けて生きることは出来ません。両親の愛が、神の愛が、この私を育ててくれたからです。人は自分を愛してくれた人の命を背負いながら生きているのです。もし、その愛に背を向けて「自己中心」に生きるならば、それは「眠っている者」であり、「死んでいる者」と同じです。愛を忘れ、自己中心に生きる者は「闇の世を歩く者」なのです。先週お語りした主の「湧き出る泉」の意味は、「愛を思い起こし、愛に満たされる喜び」のことです。ですから私共は愛という「光」を内側に照らして頂くことを通して、愛の喜びに満ち溢れて、「光の子として」歩んで行くことができるのです。私共の光も闇も、その全てが照らされ、全ては光(喜び)となるのです。