「聖 書」
モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」
主は、モーセが道をそれて来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。主は言われた。「わたしはエジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫びを聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。
(出エジプト記 3章1~8節)
彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために。
(コリントの信徒への手紙 一 10章1~6節)
説 教 「足から履物を脱ぎなさい」
モーセの召命の場面です。本日の御言葉は、信仰者の勝利の道を示しています。それは「足から履物を脱ぎなさい」です。四旬節に入り、私共は「荒野の40日」(信仰者の戦い)、「目指す目標」(主の変容)の御言葉に聴いてまいりました。信仰者の戦いは霊的なものです。負けは許されません。にも拘わらずに私共は罪と悪の戦いに負けるのです。本日はコリント一書10章も読んで頂きました。そこにはモーセの時代のイスラエルの民の「負け」が記されています。ここに「荒れ野での滅び」と記しています。私共の信仰の生涯も又、「荒野の40日」を歩んでいるのであると先週にも申し上げました。それはイスラエルの人々の「荒野の40年」とも同じものです。滅んだ彼らに恵みがなかったわけではありません。その旅路には常にキリスト「霊的な岩」がおられたのです。私共も又、同じです。私共は信仰者の勝利を選ばなくてはなりません。その方法は前述の通りです。主の前で「履物を脱ぐこと」です。この意味には二つのことがあります。一つは「自分の権利を捨てること」です。このことはルツ記4章にその意味が記されています。主の前に出る私共は「裸」です。過去の経験や業績、立場や体裁を放棄します。もう一つは「僕の立場になること」です。奴隷には靴を履く権利がありませんでした。神の前には「僕」として出るのです。祭司は聖所に入る時には必ず裸足でした。本日の御言葉の中心には神がおられます。モーセが中心ではありません。何故、モーセは「出エジプト」の指導者として選ばれたのでしょうか。彼が立派であったからではありません。そのことは後に記される彼の言葉を聞けば分かります。彼は80歳となっていました。若い頃の気力は失せていました。そのモーセを神は用いられたのです。モーセの召命の前段に神の御心が示されています。「神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた。」(2:25)神に助けを求める「彼らの叫び声」が、神に届いたのです。「出エジプト」の奇跡は「神の愛」の出来事です。聖書には常に神の愛と神の御心が必ずなる事が記されています。そして、その計画には必ず、「小さな者」が用いられるのです。主の栄光を拝するために「小ささ」は大切です。信仰者の勝利のために「小ささ」は不可欠です。私共は「神の僕」です。神に仕える者です。信仰者の勝利は、悪の奴隷にならずに、神の声に聴き従い、「神の僕」となり、神に仕えていく人生にこそあるのです。神に仕えていくことを通して、神は導き守り、あなたに「神の計画」を委ねる召命と使命を与えられるのです。