「聖 書」
深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。
主よ、あなたが罪をすべて心に留めるなら主よ、誰が耐ええましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです。
わたしは主に望みをおき、わたしの魂は望みをおき、御言葉を待ち望みます。見張りが朝を待つにもまして、見張りが朝を待つにもまして。
イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに、豊かな贖いも主のもとに。主は、イスラエルをすべての罪から贖ってくださる。
(詩篇 130章1~8節)
説 教 「御言葉を待ち望む」
本日は詩編の「都に上る歌」(悔い改めの詩)を通して、「復活」について深く御言葉に聴きたいと願っています。「都に上る歌」は「巡礼者の歌」です。都に上るとは、毎年エルサレムで行われる三大祝祭への巡礼の旅のことを語っています。巡礼者の旅の目的は何でしょうか。それは過去における御守りの感謝を捧げる事であり、現在と未来における御助けを祈り、その祈りに応えられる神に信頼を捧げることです。このことは現代を生きる信仰者も同じ目的を携えながら、信仰の馳せ場という「巡礼の旅」を歩んでいます。しかしキリスト者である私共は「エルサレム」を目指すのではなく、「主イエス」を神の現臨の場所として、日毎に礼拝を捧げています。この二つの出来事は線上のものです。旧約の書である本日の御言葉は「わたしの魂は主を待ち望みます。見張りが朝を待つにもまして。」と告白します。「待ち望み」は信仰者の基本的な姿勢です。何を待ち望むのでしょうか。それは「深い淵の底にあるわたし」を神が贖ってくださるのを待ち望んでいるのです。この「贖い」こそが、主イエスが語っておられた「復活」のことです。本日の御言葉は「復活」を待ち望んではいますが、まだそれを手にしてはいません。この「贖い」は主イエスの十字架の贖いを通して完成します。イエス様はラザロを蘇生させる時に、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」と言われました。主イエスはラザロの病気を聞いた時に、「この病気は死で終わるものではない」と言われ、すぐその後に、「ラザロは死んだのだ」と言われました。主が語りたいことは如何なることでしょうか。主は「わたしを信じる者は、死んでも生きる」と言われています。この意味は本日の御言葉の真意でしょう。信仰者が真実な歩みを為すほどに、自らの「深い淵の底(罪)」を知ります。そのままでは「死」なのです。しかし神が、神のみが、その深い「淵の底(罪)」を贖って下されば、人は死んでも(永遠に)生きるのです。これは復活の命を頂くことと同じ意味です。本日の歌の作者は、その死から命へと移す、贖いの主に信頼を捧げつつ、この歌を歌っているのです。ルターは、本日の詩編を「聖書の正しい師であり先生」と呼び、「福音の基本的真理を教えるものである」と告白を為しました。本日の御言葉は「人間の苦しみと神の恩寵への信頼」を告白しています。この恩寵は先週に召された兄弟の上にも豊かに注がれている神の恵みです。私共は死を超えて、復活の希望を戴いていることを神に感謝します。