3月5日(日)聖日礼拝

「聖書」

主はアブラムに言われた。

「あなたは生まれ故郷父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る。」

アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。

(創世記 12章1~4節)

「祝福の源」

アブラハムは「信仰の父」と呼ばれます。何故でしょうか。彼の信仰生涯は不信仰と失敗を多く経験したものであったのに。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は「アブラハムの宗教」と呼ばれます。同じ唯一の神を信じているからですが、それと共に、同じ聖典の民であり、アブラハムを唯一神が人類救済のために選んだ預言者として篤く尊敬し、彼を祝福している人の宗教であるからです。同じ質問を致します。何故、彼は「信仰の父」として高くあげられているのでしょうか。この意味は、本日の御言葉の句に示された「祝福の源」の意味が解せれば、答えを見出すことが出来ます。アブラハム以前にも信仰篤い人物は登場します。(エノクなど)しかし彼は違うのです。その意味をパウロ先生はロマ書4章にて、解き明かしをしています。「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた。こうして彼は神を信じる者のすべての人の父となり、彼らも義と認められました。」アブラハムの信仰は、神が約束した全人類の「祝福の源」なのです。彼は一個人の信仰者の祝福ではなく、神が選ばれた「選民」の祝福なのです。アブラハムの血肉にある子孫のみならず、霊的な子孫のすべてを包み込む使命的信仰が彼には与えられたのです。この証拠は「聖書」にあります。創世記12章から新しい物語が始まります。「族長時代」です。アブラハムから始まる「選民」の歴史が記されていくのです。これは「予型論的釈義」になりますが、「霊的一新」(ノア)「信仰生活」(アブラハム)「子としての生活」(イサク)「奉仕の生活」(ヤコブ)「苦しみと栄光の生活」(ヨセフ)どうでしょうか、創世記がキリスト者の「信仰生涯」を語っていることが理解できるでしょう。「アダムはキリストの「型」(テュポス)です。」(ロマ5:14)私共は「四旬節」を歩んでいますが、アダムの原罪を見る時、己の罪も示されます。律法を知る時、己の不義を示されます。イエスの山上の説教を聞く時、己の不信仰を示されます。その罪の現実が、世を支配しているので主イエスは世に来られたのです。私共が不信仰であるので、主は来られ、十字架の贖いを成し遂げられたのです。私共は「回心と悔い改め」を為す愛の場所を与えられています。アブラハムも又、失敗の連続でありながら祝福は取り去られませんでした。神の赦しがあったからです。彼は神を信頼しました。これが「祝福の源」です。祝福は福音です。証しです。