3月6日(日)聖日礼拝

「聖 書」

さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』」と書いてある」とお答えになった。更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」イエスはお答えになった。

「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」

(ルカによる福音書 4章1~13節)

「聖霊に満ちて」

四旬節第一主日を迎えました。レントです。イエス様が経験された「荒野の誘惑」は共観福音書の全てに記されています。レントに入り、第一主日に読まれる、この記事は大切なものです。どのような意味があり、私共と如何に関りがあるのでしょうか。「聖霊に満ちて」この言葉はルカ書にのみ記されています。ルカは聖霊の働きと福音の具体を示すことを特徴としています。ルカは本日の出来事を次の流れで記しています。「主の(聖霊)洗礼」→「(聖霊に満ちて)荒野の誘惑」→「(御霊の力に満ちて)伝道を始める」→「安息日に(主の霊がわたしの上におられる)イザヤ書を読み、今日、この聖書の言葉(アフェシスの年)は実現したと告知される」如何でしょうか。主の「公生涯」は霊の導きであり、常に主は聖霊と共にあり、父である神の御旨を生きておられます。この御生涯は聖霊の洗礼を受けて、信仰を得、キリスト者とされた私共の生涯の「ひな形」でもあります。私共信仰者の先を歩まれた主の「荒野の誘惑」の意味を知ることは、キリスト者の道を歩む私共を「霊の豊かさ」の世界に導きます。主は自らの意志ではなく、御霊によって「導かれて」荒野に赴きました。この導きは神の強い働きを表しています。共観福音書がそれぞれに表現しています。(マルコ)エクバロー「追い出す(強く押し出す)」(マタイ)アナゴー「上に導く(霊の世界に)」、そして(ルカ)アゴー「導く」と普通の表現ですが、「聖霊に満ちて」と加えて、その強さの意味を表現しています。主の「荒野の誘惑」は私共の罪の贖いの為に必要なことでした。この意味についてはヘブライ人への手紙2章に詳述されています。(拝読)「悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の奴隷にあった(私共)者を解放なさるため」「試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人を助けることがおできになる」主は目(心)が開かれた道案内人になられているのです。主は悪魔から3つの誘惑(ペイラゾー)を受けられました。一つ目は「苦難の中(荒野の40年)での主の言葉への信頼」二つ目は「富(マモン)ではなく、神に命がある」三つめは「背信(罪)を排する神への信頼」御言葉を通して主は勝利されました。しかし世の人は「罪の奴隷」であり、やがて死に至る者であることも深く知る機会ともなりました。主は「悲しみの人」となりました。主は御自分が「苦難の僕」となり、メシアの使命を生きる事を悟り、神の示された愛の道を往きます。