「聖 書」
だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。
(テモテへの手紙二 1章8~10節)
説 教 「共に苦しみを」
受難節第二主日を迎えました。本日はパウロ先生の「最後の言葉」を通して、福音に触れましょう。本日の説教題は「共に苦しみを」です。本日の御言葉のパウロ先生の弟子テモテへ向けて語られた言葉です。パウロ先生はローマ政府の捕らわれの身であり、殉教の日が迫っています。ですから彼は「わたしが主の囚人であることを恥じてはなりません」と語りました。「ローマの囚人」でなく、「主の囚人」と語っています。パウロ先生が「殉教」する理由は、皇帝礼拝をしない「悪魔礼拝の輩」であるからです。このことは公開処刑であり、教会に集う者は危険に晒され、社会から「恥」を受けます。信徒は大変な困難に遭いますが、教会を牧する者は尚更でしょう。そこでパウロ先生は、愛する弟子テモテに「最後の言葉」を送り、主に堅く立つように鼓舞するメッセージとしたのです。何故、パウロ先生は「ローマの囚人」と言わず、「主の囚人」と言ったのでしょうか。それは宣教の苦しみを「主の囚人」の故に、逃げずに、喜んで受け入れているからです。それでは何故、宣教には「苦しみ」が伴い、宣教に与る者は「苦しみを忍ぶ」ことができるのでしょうか。それはペトロが答えています。「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。」(一ペトロ2:21)キリストは罪の只中である「世」に来られました。神の愛ゆえに、世の人と「苦しみを共にする」ためです。それだけではなく、地獄である世を贖うために、自らの命を与えることを通して、私共の「病=罪」を癒されるキリストとして世に来られました。主は私が生まれる前から私共の歩む道と苦しみを知っておられました。ですからキリストは世ができる前からおられた方です。主の十字架の贖いは、神が用意されていた「神の計画と恵み」なのです。パウロ先生自身が「神が私達(わたし)を救い、聖なる招きによって呼び出してくださった。」と言っています。この救いは世の戦い、罪との闘い、自分との闘いの苦しみを通して得られたものです。宣教は激しい罪との闘いがあるが故に「苦しみが伴う」のです。しかし、それでも尚、宣教を行くことができるのは、これもパウロ先生の言葉、「キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。」私共には救いの恩寵である天国があるから主の道を歩んでいけるのです。師は弟子を愛し、宣教の苦しみを共にすることが「天国の真実」を知る秘訣であることを教えたのです。