3月8日(日)聖日礼拝

「聖 書」

イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくていいように、その水をください。」…神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。

 (ヨハネによる福音書 4章5~42節)

説 教「神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」

本日の御言葉は不思議な御言葉です。主が水を求められてサマリアに入られた話が、いつの間にか「礼拝」の話となり、あの有名な御言葉である「神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」につながっているからです。これは著者ヨハネの意図です。前節の4節に「通らねばならなかった」とあります。ここには(ἔδει)で(must needs=ねばならない)という意味の言葉が使われています。主がサマリアに入られたのは「神の意思に基づく神的必然」があったのだとヨハネは語っているのです。本日の物語の主題は「宣教」です。このことは以前にもお語りしました。本日は更に進んで「神の言葉」の恵みに与って頂きたいと願います。主イエスは旅に疲れて、「井戸」(ペゲー)のそばに座っておられました。そこにサマリアの女が水を汲みに来たのです。主は水を所望されました。女は普段の付き合いのことを思い、訝しげました。女は「井戸(フォレアル)は深いのです」と返しました。この言葉の違いに、ヨハネは意図を込めています。主は「湧水の泉(ペゲー)」を語り、女は「水を溜める(フォレアル)」の「井戸」を語っているという意味です。これは霊的な意味を語っています。ヨハネ書の特徴として、著者は生前のイエスと復活後のイエスを重ねて書いています。主の生前には意味が理解できなかったことが、今は、「あの時の」意味が理解できるようになったということです。ですから、本日の物語は他の福音書には記されていません。女の「井戸の深さ」は、彼女の「魂の渇き」の深さを語っています。その証拠に、この言葉の後に続く主の言葉にある「永遠の命に至る水がわき出る」という御言葉が出てきます。主は「わたしが与える水はその人の内で泉となり」と言われました。「活水」です。私共の「群」は、この御言葉の恵みを生きているのです。女は「その水をください」と主に願いました。主は女の過去に触れられました。魂の渇きの原因を指摘されたのです。彼女の五人の夫は、アッシリアが北イスラエルを植民化し、五民族を移住させ、雑婚させ、「神々」を礼拝させたの意味が込められています。六人目は混合ヤハゥエのことです。主は「しかし」と言われました。「まことの父を礼拝する時が来る」それは「今がその時である」と主は女に言われました。主は、その後、弟子たちに「わたしには食べ物がある」と言われました。マナのことです。この後、多くの人々が「イエスの言葉を聞いて信じた」と書かれ、「これに聞け」に繋がります。私共は主の言葉を聴き、霊の礼拝を守れます。