「聖 書」
主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え、疲れた人を励ますように言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし、弟子として聞き従うようにしてくださる。主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった。打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。主なる神が助けてくださるから、わたしはそれを嘲りと思わない。わたしは顔を固い石のようにする。わたしは知っている。わたしが辱められることはない、と。
(イザヤ書 50章4~7節)
説 教 「わたしは逆らわず、退かなかった」
「棕梠の主日」を迎えました。ホサナと歓呼の叫びをあげ、勝利の王キリストをお迎え致しましょう。(棕梠の配布)主イエスは「勝利の王」です。新しい国の王です。本日から始まる「受難週」、主は「聖金曜日」(18日)に十字架の死を遂げられます。十字架のイエスの死とは、私達が作り上げているものが全て破壊される、崩壊することを表しています。(茂師)しかしそこから新しい霊の世界が始まるのです。その「新しい世界」とは如何なる世界か。新しい世界は、「完全な神の愛の世界」です。本日の御言葉は、その内実を語るものです。私は以前に同じ御言葉で二回解き明かしをしています。(2015.9.13、2021.9.12)ですから以前の説教の更に具体的な「霊」の話を致します。キリスト教の歴史は「迫害」と「殉教」の歴史です。その「苦難」の出来事が多ければ多いほど、クリスチャンは爆発的に増えてきました。この理由は何なのでしょうか。先週の説教にて「姦通の女」の話をしました。女は主の手を取りました。主の愛も感じたでしょう。しかし本当に自分を支える「神の愛」を感じることができたのは、主イエスの「十字架の死」を見た時です。私共も又、主の「受難」と主の「十字架」の意味を知る者でありたいと願います。本日の御言葉を見てみて下さい。主語は「わたし」です。この御言葉はキリスト預言ではなく、私達のことです。神の言葉を聴く者の全てに向けられて語られているものです。私達キリスト者は「主の弟子」です。「主の御言葉に聴き従い、学び続ける者」です。学び続ける者は「弟子としての舌」が与えられます。「耳が開かれ」ます。耳が開かれるとき、何が聞こえるのでしょう。勿論、神の声ですが、「わたしは人を愛している」「わたしはあなたを愛している」という声が聞こえてくるのです。それだけではなく、神が愛しておられる被造物世界が見えてくるのです。(目が開かれる)私達は「主の声」を聴きます。そして「舌」が与えられます。この舌は「疲れた人を励ます舌」です。献身する者は、召されたキリスト者は、神の愛(霊の喜び)を語る者とされるのです。以前にお語りしたマザー・テレサは「死を待つ人の家」の入浴後の「瘦せこけた人」を受け止め、体を拭いながら「あなたは大切な人です。あなたは神様から許されて愛し抜かれています。」と言われたそうです。マザーの日常の言葉です。マザーは神の愛の霊の耳と目が開かれていました。姦淫の女も理解しました。主が十字架の苦しみに耐えられ、祈られたことは、「彼らを赦し給え」でした。主は復活を信じ、勝利されました。