4月20日(日)復活日礼拝

「聖 書」

そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。神がイエス・キリストによってーこの方こそ、すべての人の主ですー平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、あなたがたはご存知でしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。

(使徒言行録 10章34~43節)

説 教 「御一緒に食事をしたわたしたち」

皆様、イースターおめでとうございます。本日は使徒ペトロの「復活体験」を通して、復活の真実に出会いたいと願います。復活の出来事は出会いの出来事です。復活信仰は今も生きて働き続けています。本日の御言葉はペトロ先生がコルネリウスの家で福音を告げる場面ですが、まず驚くことは、ペトロ先生の変容です。確信をもって、主が「メシア」(油注がれた者)であることを告げています。そして、このメシアは「審判者」であり、主を信じる者に「罪の赦し」を受けさせる「救い主」であることを大胆に告げているのです。この変容の姿は、聖霊の働きと共に、彼の「復活体験」が基となっています。ペトロ先生は、主の為なら命を賭してもよいと考えていた弟子です。(ヨハネ13:17)その先生に、主は「三度の裏切り」予告をされました。先取りの愛です。主は「サタンが、弟子たちをふるいにかける」ことを知りつつ、ペトロ先生に「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)との言葉もペトロに残されました。先生は本当に「三度否み」ました。(ヨハネ18:25)鶏が鳴いたとき、強く後悔の念に押しつぶされそうだったでしょう。主の復活がなかったならば、ペトロ先生の使徒の働きもなかったでしょう。ヨハネ書21章を御覧下さい。ペトロ先生の復活体験です。ガリラヤ湖に戻っていた弟子たちと共に「復活の主」が食事をされる場面です。朝の食事のとき、誰も「あなたはどなたですか」と問うことをしません。主であることを知っていたからですが、それ以上に、後悔の念があったからだとも思います。そのことを知っていた主は「共に食事をする」事を通して、「和解の食事」を提供したのです。弟子たちに反省の言葉を言わせる前に先に「赦し」を提供したのです。これは「放蕩息子」の父の愛と同じです。そのことが真実であったことの証拠に、15節以降に続く「イエスとペトロ」の「招き」と「和解」と「派遣」の物語が記されています。今も「ペトロ首位権教会」にある「メンサクリスティ」(キリストの食卓)(週報挿絵)は「主との和解の食事」を証しする岩として教会にあり続けています。主はペトロ先生に言われたのです。わたしはあなたを変わらず愛している。「この人たち以上に、わたしを愛しているか」ペトロの強い後悔の念と強い愛を知った上での質問をされたのです。キリストの愛の赦しを心から受入れ、主への愛を生きることで新しい命を得させる為に。「罪の赦し」(アフェイシス)は罪からの解放です。感謝!