4月14日(日)聖日礼拝

「聖 書」

キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

(フィリピの信徒への手紙 2章6~11節)

説 教 「イエス・キリストは主である」

本日はマザーテレサの言葉から御言葉を聴くヒントを戴きましょう。「日本人はインドのことよりも、日本のなかで貧しい人々への配慮を優先して考えるべきです。愛はまず手近なところから始まります。」マザーが初来日された時の言葉です。私は、この言葉に触発されて50歳にして生活困窮者のNPOを立ち上げました。「あなたが触れているのは、病に悩む神様そのものなのです。貧しい人たちは、私たちが彼らに与えるよりはるかに多くを、私たちに与えてく れます。彼らは、食べ物なしで日ごとに生きている強い人々。彼らは決して他人をののしったり、不平を言うことはありません。私たちは、彼らを哀れみ同情を与える必要はありません。むしろ、私たちが彼らから習うべきことがたくさんあります。」私が生活困窮の人々から学んだことも同じです。「もし貧しい人々が飢え死にするとしたら、それは、神がその人たちを愛していないからではなく、あなたが、そしてわたしが、与えなかったからです。神の愛の手の道具となって、パンを、服をその人に差し出さなかったからです。キリストが、飢えた人、寂しい人、家のない子、住まいを捜し求める人などのいたましい姿に身をやつして、もう一度来られたのに、わたしたちがキリストだと気が付かなかったからなのです。」私は生活困窮者の人々の姿に「謙遜」を見ます。姿の中にキリストがおられます。本日の御言葉の中に、「人間の姿」(スケーマ)があります。この言葉は「キリストはすべてにおいて人間と同じようになった」という意味です。キリスト御自身が最も貧しい「奴隷」(タペイノス:遜り)になられたのです。私達が真の「愛の共同体」を造ろうとするならば、頭だけでは為すことは適いません。キリストに倣い、小さく、弱く、貧しい人に仕える具体的なことを通して、愛を学ばなくてはなりません。近くの人々に仕え、微笑むところから始めなければなりません。その業が本物ならば、マザーの愛の宣教会のように、アリの街のゼノ修道士のように、後世に大きな実を残す事ができるのです。キリストは神に完全に従順でした。罪を犯されませんでした。このことを通して、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。私達もまた「低く」なることを通して、天国の住人にならしていただきましょう。「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえることを通して、神の業に参加しましょう。「イエス・キリストは主である」と告白することはイエスの姿を模範とする道を行くことなのです。