「聖 書」
二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
(ルカによる福音書 24章35~48節)
説 教 「平和があるように」
私共は礼拝の中で「キリストの平和があなたにありますように」と「挨拶」を交わし合う。その基となっているのが本日の御言葉である。本日は「主の平和」と呼ばれる「キリストの(与えられる)平和」について御言葉に聴くことに致します。本日、復活の主が弟子達に語られた「あなたがたに平和があるように」という言葉は、ヨハネ書に記されたイエス様の言葉の成就です。イエス様は受難予告を為した後に、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。」と言われ、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。」と生前に予告しておられました。そして続けて、「わたしは去っていくが、また、あなたがたのところへ戻って来る」と言われたのです。本日の御言葉は、そのお言葉通りの事が起こったことを証ししています。ではイエス様の言われている「エイレーネー ヒューミン」(あなたがたに平和があるように)とは如何なる「平和」のことなのでしょうか。また、「イエスの平和(主の平和)」とは如何なる意味なのでしょうか。ここで記される「エイレーネー」は聖書でよく用いられる言葉です。「平和」「平安」と訳します。新約聖書はギリシャ語で記されていますので、イエス様の語られた意味を語るには限界があります。イエス様の、ここで語られた「平和」とはヘブル語の「シャローム」のことです。シャロームとはエイレーネーではありません。エイレーネーよりももっと広い意味を持つ言葉です。シャロームの意味は「平和」に留まりません。その一部を語るならば「平和、和平、和解、平安、平穏、無事、安心、安全、繁栄、健康、成熟、充足、満足、生きる意欲、知恵、悟り、霊的開眼、…」等々、多くの意味を持っています。では弟子達に語られたイエス様の「平和」とは如何なる意味なのでしょうか。それは「魂に天国を持ち、天国に住む状態」のことです。「魂に拠り所(神の愛、神の平和)を持つこと」であります。人の実存は「静まることのない、安住の地を失った魂の状態」であり、地上をさまよい、世をさすらう者です。イエス様は自分の与える平和を「世が与えるように与えるのではない」(ヨハネ14:27)と言われました。世にあるものでは人は真実の「平和」を手にすることはできないのです。イエス御自身は、真実の「平和」を持っておられました。復活のイエス様は、その神との深い交わりで得ていた「主の平和」を弟子達に与えられたのです。その「平和」を手にした弟子達や信徒達は迫害や困難の中を「平和」に励まされつつ、「希望」を生きたのです。