「聖 書」
あなたがたはご存知でしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。
(使徒言行録 10章37~43節)
「信じる者はだれでも」
皆様、主の御復活(イースター)おめでとうございます。主は今も私共と共におられ、私共の「主」であり続けておられます。本日の御言葉は復活の主の「現在性(今)」について語っています。私共は聖餐式の時に「主の御体」を戴きますが、このことは主の現臨を証ししています。私が、本日解き明かす御言葉は復活の現在性です。主の現臨は信じる者に起こりますが、主の復活の現在性は全ての者の上にあります。私は先週、受難の主日に「私共が十字架を問うのではなく、十字架が私共を問う」と申しました。十字架の恵みは全ての人に開かれた「神の恵み」なのです。本日の御言葉に「あなたがたはご存知でしょう」と異邦人に向けたペトロの言葉があります。この言葉は世界の全ての人々に開かれた言葉です。私共の悪魔の世にあって、死に勝利された「復活の主」が現臨されている事実が主の復活の「現在性」です。この事実は信仰者にのみ「ある」ものではありません。神の慈しみは「全ての被造物」に満ちているのです。本日、異邦人を前に説教をするペトロは、以前は「肉の人」でした。私共と同じ「ただの人」だったのです。(ルカ9:28、ヨハネ13:9「自分に信頼する者」)そのペトロが聖霊を受けて変貌しました。「神の人」「奇跡の人」「使徒」となったのです。彼の数々の「奇跡物語」は「神のしるし」です。「神の業」です。彼の業でありません。ペトロはヤッファで復活の主に幻を見せられます。異邦人のコルネリウスは天使に幻を見せられます。そのどちらも「神の計画」です。復活の主の現在性が働いておられるのです。この二人の出会いを計画をし、異邦人宣教(世界伝道)に道を開いたのは主の働きです。この働きは今も「あり続ける神の恵み」です。ペトロは本日の説教を「ケリュグマ:使徒の教え:教理」として語っているのではありません。主に出会い、自分の前で見させていただいた数々の「神の先行の恵み」と「先行の神の業」が彼の「証し」となっているのです。ペトロは説教の中で必ず、「私は証し人である」と告白しています。彼は今も生きておられる復活の主の「証人」なのです。本日は「洗礼式(堅信礼)」が執り行われます。ペトロは本日の御言葉の最後で、「主イエスを信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる」と語りました。彼自身が証人です。洗礼の恵みは神の先行の業が決断を促します。「信じる者はだれでも」赦しを得、永遠を生きます。