4月18日(日)聖日礼拝

「聖 書」

わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪、いや、全世界の罪を償ういけにえです。わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません。しかし、神の言葉で守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります。

(ヨハネの手紙 一 2章1~5節)

説 教 「神の愛が実現」

ヨハネは本日の御言葉の冒頭で、「わたしの子たちよ」と読者に呼びかけています。先週お語りした如く、私共キリスト者は「神から生まれた者」であり、互いに「神の家族」です。ですからヨハネは愛する神の家族に向け、「子たちよ」と愛の言葉を届けているのです。これは本日の御言葉の意味を象徴する大切な言葉です。彼は本心から切実に呼びかけています。その意味を本日深く味わいたいのです。彼は2章の冒頭で「罪」のことを語り、「弁護者キリスト」の愛の深さを語りました。これは(1:8)「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。」を受けたものです。ヨハネはグノーシス主義者を意識して、手紙を認めています。「グノーシス」は「知恵」で「頭でっかち」です。教会の中に、頭でっかちの「罪」が入り込んでいたのです。彼らは、霊と肉を二元に分け、霊は救われているのだから、肉は放縦でもよいと教えました。キリストの十字架の贖いを「自己中心に解釈」したのです。ヨハネはキリストの救いに与った者や、他の全ての者も、真理から道を外すことなく「罪」を犯さないように奨励しました。キリストの救いに与る者は「本物」になろうと奨めたのです。真理に沿い、「本物の教会」になろうと進言しているのです。では「本物の教会」とは何でしょうか。それは「愛の共同体」を形作るということです。グノーシスは「私は神を知っている。私は神を愛している。」と公言していました。しかし彼らは「神の家族を愛する交わり」を為していませんでした。私共は、どうでしょうか。私共がキリストを信じ、神の掟「互いに愛せ」を守っているならば、私共は神を知っています。また神の言葉「互いに愛せ」を守っているならば、「神の愛が実現」しています。ここに語られる「実現」(テレイオー)が大切なことなのです。このところの「実現」は直接完了受動態で、「神の愛が(神によって)全うされている」の意味です。主は十字架上で贖いの死を遂げられ、「(神によって)成し遂げられた(テレオー)」と最期の言葉を叫びました。神の計画「愛の国の実現」を成し遂げられたのです。神の愛が目的を達成したのです。ですから今は「救いの時、恵みの時」なのです。私共が真実に自らの罪を悔い改め、主に立ち帰るならば、主は助けて下さり、「互いに愛し合う」教会を形作る事ができます。私共が互いに愛し合うならば、神の愛は実現しているのです。