「聖 書」
「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ロバのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「シオンの娘に告げよ。
『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」
弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。
「ダビデの子にホサナ。主によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。
(マタイによる福音書 21章1~11節)
「主の名によって来られる方に、祝福があるように」
「受難主日」を迎えました。本日から「受難週」が始まります。本日は主の「エルサレム入城」を通して、御言葉に聴きます。「受難週」の心備えが整えられますように。本日は「受難」は取り上げません。本年から「受難日燭火消火礼拝」を執り行いますので、「受難」は、そのところで読みます。さて本日は皆様に「棕梠の葉」をお渡しします。一年間、自宅にて保管をしておいて下さい。「受難物語」はエルサレムにて群衆が王として主イエスを「ホサナ」と迎える時から始まります。彼らは「王として」主イエスを迎えたのです。(列王記下9:13)しかし都の者が、主イエスのことを「彼は何者だ」と問うたとき、群衆は「預言者」と答えたのです。主イエスは王であり、「メシア」(キリスト)です。預言者ではありません。エルサレムで歓呼で迎えられた主は群衆に誤解されています。「受難」の始まりです。私共も主をキリストと信じ受け入れました。「熱狂した」時期もあったかも知れません。今は如何でしょうか。信仰は常に神から問われています。主は私共に常に、「あなたはイエスを誰と言うか。」と問い続けておられます。私共の勝手な思い込み(主観)を確信とするならば、迷いの多い自分は確信が揺らぐ時が来るでしょう。遂にはイエスを「殺す」(無い存在)時が来るかも知れません。彼らは主イエスに熱狂していたのに、本当に十字架にて、主を殺したのです。しかし本日の「エルサレム入城」を書き記したマタイは違います。彼は「神の国の到来」を告げ、「王権の回復」を語り尽くしています。彼は「シオンの娘に告げよ」(ゼカリヤ9:9)を引用して、旧約預言の成就を語ります。それが確実であることを語る為に、7節にて「その上に」と訳された原文を「それらの上に」と複数形にして記し、ゼカリヤ預言の二頭の「ろば」を引き出しています。又、「ホサナ」の場面では詩篇118編を引用しています。そのところに「ダビデの子」を加えています。メシア預言の成就を語り、(118:17,18)「復活」(118:22,23)「隅の親石」を語り、「苦難の僕」(イザヤ書53章)を群衆の「歓呼」に添えて語っているのです。マタイは「主の言葉」を信じました。「聖書」を信じました。彼はまことの揺らがない信仰の「確信」を得たのです。「棕梠の主日」は「第二の待降」です。マタイは読者に「主の名によって来られる方に、祝福があるように」を真の信仰にて歓呼して迎えることを告げています。真の回心の時です。