「聖 書」
わたしは、あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである。わたしは、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた。ある主の日のこと、わたしは“霊”に満たされていたが、後ろの方でラッパのように響く大声を聞いた。その声はこう言った。「あなたの見ていることを巻物に書いて、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの教会に送れ。」わたしは、語りかける声の主を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見え、燭台の中央には、人の子のような方がおり、足まで届く衣を着て、胸には金の帯を締めておられた。その頭、その髪の毛は、白い羊毛に似て、雪のように白く、目はまるで燃え盛る炎、足は炉で精錬されたしんちゅうのように輝き、声は大水のとどろきのようであった。右の手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出て、顔は強く照り輝く太陽のようであった。わたしは、その方を見ると、その足もとに倒れて、死んだようになった。すると、その方は右手をわたしの上に置いて言われた。「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。…」
(ヨハネの黙示録 1章9~19節)
「恐れるな」
復活節第2主日を迎えました。先週、私共は「イースター」の恵みを分かち合いました。礼拝説教の中で私は、復活の主の「現在性」について語りました。主は今も、私共と共に「あり続けて下さる方」です。その恵みを覚えて共に感謝を捧げたのです。では兄弟、姉妹、その「復活の主」は今、どのような姿をされているのでしょうか。本日は黙示録に証しされているヨハネの「証言」を通して、そのお姿に触れたいと願っています。週報を御覧下さい。老ヨハネが描かれています。今、彼は高齢となり、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモス島にて囚人生活を送っています。老齢でありながら石切りの苦役を毎日課せられています。しかしヨハネは毎日、顔はしっかりと復活の主の方に向き、顔を上げているのです。御言葉に「主の日」と記されています。「復活の主日」と解しても良いですが、「わたしは“霊„に満たされていた」とあることから、復活の主と交わる礼拝の時と解しても良いでしょう。ヨハネは老齢です。苦役を毎日課せられて疲れています。しかし彼は毎日礼拝を捧げています。明日をも知れぬ身を思い、不安もあったかも知れません。その苦労を彼は、同じ迫害下にある兄弟に、「わたしも兄弟であるあなたたち共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっている」と告げました。わたしも「主と共にあり」喜びの苦労の中にあると告げたのです。そして続けて彼は主から示された「天上におられるキリストの姿」を証ししました。その方は「人の子のような方」であったと告げます。聞く者はすぐに「ダニエル書7章」を思い出します。そこには「日の老いたる者」(神)と「人の子」(キリスト)が終末預言の中の人物として描かれています。場面は、神(裁き主)が裁判官の席に着く所です。その神の姿と本日の御言葉のキリストの姿は同じ様です。ヨハネはキリストが神であり裁き主であることを見たのです。主はヨハネに「恐れるな」と言われました。私は「永遠の命(死と陰府)の鍵」を持っていると言われました。その姿は信仰者を救う姿(声、目、足)です。主の前に7つの金の燭台(メノラー)がありました。メノラーは受難の象徴であり、イスラエルの国章です。7つの燭台は7つの教会です。全てのキリスト者の象徴です。主は私共が不完全であっても、復活の主を見上げ、十字架の血の贖いを信じる信仰を通して、主と共に「ともしび」にして下さるのです。