4月28日(日)聖日礼拝

「聖 書」

子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。

これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます。心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです。愛する者たち、わたしたちは心に責められることがなければ、神の御前で確信を持つことができ、神に願うことは何でもかなえられます。わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです。その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。神の掟を守る人は、神の内にいつもとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。神がわたしたちの内にとどまってくださることは、神が与えてくださった“霊〟によって分かります。

(ヨハネの手紙 一 3章18~24節)

説 教 「願うことは何でも」

本日の御言葉は、「神に願うことは何でもかなえられます。」と記しています。素晴らしい御言葉です。では、私共は何を神に願いましょうか。世の人々は、何を願うでしょうか。あなたはどうでしょう。私は子供のころに貧しかったので「お金」を求めていました。劣等感が強かったので、学歴や出世を望みました。家庭環境が複雑だったので、「家庭」を求めました。しかし多くのものを手にしても「空しさ」がありました。人の持っているものがない時、それが欲しかった。「無い物ねだり」をしていました。私共の「本当の願い」「本当の欲しいもの」は何なのでしょうか。ここに記されたことは、多くの人が経験していることです。今も、「それを」求めている人はいるでしょう。しかし、私共の求める「それ」は、本当に真に心を満たすものでしょうか。私共は、私共が求める「その先」にあるものを得る為に、枝葉の「それ」を求めているのではないでしょうか。お金を得るのは「生活の安定」、「家庭の安心」のため、「愛の場所」を確保するためです。仕事をし、家庭を守り、地域に貢献するのは「愛の交わり」を保つためです。私共は心を落ち着けて、「わたしの真の願い」を知る必要があります。その「真の願い」に余分な金や仕事は必要ですか。互いに愛し合う心が、「そこに」あるなら、すべては手にすることができるのではないでしょうか。本日の御言葉の「小見出し」に「神への信頼」とあります。神は、あなたが本当に幸せになって欲しいと願っておられます。御子であるイエスを世に送り、私共を救う為に、十字架に架かって下さるほどの「愛の神」ですから、私共が最も「信頼して良い方」です。しかし私共が神に祈っても聞かれないことがあります。その理由は、願いに「不純」があるからです。神は必ず願いを適えられます。私共の願いは何でしょう。あなたがまことに求めていることです。それは神の御旨でもあります。神はあなただけを救うのではありません。あなたの自己中の願いを聞くのではありません。神は私共が主エスに留まり、「愛の交わり」「愛の実を結ぶ」ことを願っておられます。私共の「本当の願い」も同じものです。ヨハネは言います。私共が行いをもって「互いに愛し合う」ならば、神の前で安心できると。私共は「まことの心の平安」が欲しいのです。真理である聖霊は私共に教えます。あなたの欲するものを何でも神に願え、あなたが愛に留まるならば、その愛がなくならないように、神が全てを満たされると。