4月4日(日)復活日礼拝

「聖 書」

若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」  婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

(マルコによる福音書 16章1~8節)

説 教 「あなたがたより先に」

マルコ書の最後となりました。9節以下は、後代の加筆と言われています。では何故、マルコ書は「復活」を記さなかったのでしょうか。8節の最後の末尾句は「ガル」(なぜなら)で終わっています。如何にも未完にて文章を終えた感があります。しかし本書は未完で終わったわけではありません。この終わり方にはマルコの信仰を汲み取ることができます。マルコはガルを末尾句に置くことで、復活は人間の理解を越えた「神の介入」であると伝えたのです。マルコは復活を語らなかったわけではありません。復活の日、若者(天使)が婦人たちに告げています。「あの方は復活なさった。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」しかし、この後、婦人たちは「正気を失い」、「ガル」に続きます。人間は「世の常識」で「復活」を知る事はできません。復活は信仰の目を通して「出会う」ものだからです。マルコは「メシアの秘密」「受難の沈黙」「空の墓」を記しました。それは本書を信仰の目を通して「再読」することを奨めているからです。復活は世の常識を超えた「喜び」です。ですから、マルコは1章1節に「神の子イエス・キリストの福音」と福音書の冒頭に記しました。福音書を読む全ての者が、自分と同じ喜びをもって、信仰の目を通して本書を読んで欲しいと願ったからです。ではマルコが伝えたい「福音」とは何なのでしょうか。それは「復活」です。復活は主によって「かねて言われたとおり」為されました。ここで言う「かねて」は14章に記された「ペテロの離反」の箇所です。主イエスは十字架を前に弟子たちのすべてが「つまずく」ことを告げられ、「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」と言われました。主イエスが語る「先」とは何でしょうか。それは「つまずき」の先にあるものです。そこは弱さを抱え、逃げ帰る場所です。世が支配する、死が現実の世界です。「その先」で主は待っていて下さいます。空の墓の前でペトロに告げよと語る天使。ペトロは主を三度否み、悔いていました。そのペトロに復活の主は先で待っていて下さると告げたのです。この後のことはヨハネ21章に詳しく記されています。ペトロは悔い改めをし、三度「愛しています」と告げました。復活は神の愛です。皆様、イースターおめでとうございます。