「聖 書」
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
(ヨハネによる福音書 8章1~11節)
説 教 「これからは、もう罪を犯してはならない」
本日の御言葉は「美しい愛の物語」です。何度も説教をしました。これからも幾度もするでしょう。本日の御言葉の前に立つ者は、誰もが罪と向き合うだけではなく、「神の愛」の前に立たされます。「十字架の愛」の前です。主は罪を責め立てられる女に、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」と言われました。ここに記される「罪」(神を離れる(捨てる)罪:ハマルティア)は原罪のことです。主は女に「もう罪を犯してはならない」(もう神から離れてはならない)と言われたのです。私は先週の「放蕩息子」の説教で、聖書を自分勝手に読んではならないと申し上げました。文脈に沿い正しく読む時に、聖書は福音を語る「言葉」であることを悟ることができると語りました。では本日はどうでしょうか。私は説教の前に、註解書を参考にします。しかし註解通り語るわけではありません。註解の著者の真意を全て汲むこともできません。本日の御言葉で言うならば、雨宮神父と加藤牧師の註解を参考にしたときに、私は違う解釈で説教をしました。浅薄な捉え方だったなぁと思います。雨宮神父は主イエスが地面に書いていたことは、エレミヤ書17章12節ではなかったかと推察しています。「あなたを捨てる者は、辱めを受ける」の御言葉です。主は「試み」に対して、常に御言葉で対抗されます。主は誰よりも「低いところ」から、人々を見、神の言葉で対抗しておられます。試みる者も、傍観者も、裁く者も、裁かれる者も全員、罪人です。神から離れ、神を捨てて生きている者です。地下に行く者として記されている者です。「罪(ハマルティア)を犯したことのない者が、まず、石を投げよ。」彼らは神に問われたのです。彼らは、その場から去りました。私共の罪は「神を捨てる」ところから生まれるのです。クリスチャン新聞福音版4月号に松原兄の記事が載っていました。牧師として「小さな命に何もしてこなかった」自分を責める気持ちが記されていました。神の声を無視して生きる者も「神を捨てる」人生です。姦通の女は逃げ出さず、まだ「真ん中」にいます。この真ん中の中心はイエスです。主は宣言されます。「わたしもあなたを罪の定めない」私の架かる十字架は全ての人の罪を担い切る十字架である。女は、この時の「主の言葉」の真意は分からなかったでしょう。しかし彼女は、その後、十字架を見た。主イエスの贖い、愛を見たのです。女は証しをしたことでしょう。私は主の愛と赦しを経験し、もう罪を犯すことはできない。神から離れることはありません。アーメン。