「聖 書」
巻物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老たちは、おのおの、竪琴と、香のいっぱい入った金の鉢とを手に持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖なる者たちの祈りである。そして、彼らは新しい歌をうたった。
「あなたは、巻物を受け取り、その封印を開くのにふさわしい方です。あなたは、屠られて、あらゆる種族と言葉の違う民、あらゆる民族と国民の中から、御自分の血で、神のために人々を贖われ、彼らをわたしたちの神に仕える王、また、祭司となさったからです。彼らは地上を統治します。」
また、わたしは見た。そして、玉座と生き物と長老たちとの周りに、多くの天使の声を聞いた。その数は万の数万倍、千の数千倍であった。天使たちは大声でこう言った。
「屠られた小羊は、力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、そして賛美を受けるにふさわしい方です。」
また、わたしは、天と地と地の下と海にいるすべての被造物、そして、そこにいるあらゆるものがこう言うのを聞いた。
「玉座に座っておられる方と小羊とに、賛美、誉れ、栄光、そして権力が、世々限りなくありますように。」
(ヨハネの黙示録 5章1~14節)
「新しい歌」
本日の御言葉は「天上の礼拝」です。先週の御言葉において、聖ヨハネは、「天上におられるキリストの姿」を拝することができたことを聴きました。その姿は「栄光の姿」でありました。その栄光の主がヨハネに、「見たこと、今あること、今後起ころうとしていること」を書き留めよと言われました。本日の御言葉は4章から22章に至る「今後起ころうとしていること」です。その4章、5章においては「天上の礼拝」が記されています。4章では玉座におられる神への礼拝です。5章では小羊なるキリストへ礼拝が捧げられる場面です。この場面を(別紙)にて印刷しました。4章5章における天上の礼拝の場面です。このことは「今後起こること」です。「ヨハネの黙示録」においては「中心」と言っても良い場面です。この場面は「教会の携挙」(一テサロニケ4:16)の後に起こる出来事です。このことについては、パウロ先生は(エフェソ1章)においても語っておられます。私共も又、パウロ先生が第三の天にまで引き上げられた経験をされたように、同じ恵みを味わいたいと願います。その恵みは決して得られないものではありません。聖ヨハネも経験しました。では、それは如何なることを通して得られるのでしょうか。それは「御国を信じる」「主を礼拝する」「聖に向かう」ことです。これは、聖霊の油注ぎを毎日求めることに他なりません。このことは自らの力ではありません。信仰は与えられるもの、受けていくもの、生かされる世界であるからです。この信仰の世界は「聖霊の満たし」が可能たらしめる神秘です。では、私共のすることはないのでしょうか。することはあります。私共のすることは、本日のヨハネがしたこと。「わたしは激しく泣いていた」そのことをすることです。何故ヨハネは激しく泣いたのでしょうか。巻物(ビブロス)を開く者がいなかったからです。「巻物」は「聖書」(バイブル)です。巻物は七つの封印がされていて、誰も開くことはできません。小羊なるキリストだけが開くことができるのです。ヨハネは巻物の中を見たい(啓示を受ける)と強く願いました。その願いを屠られた小羊キリストが叶えて下さいました。キリストが巻物を受け取った時、長老たち(神の民)が「新しい歌」をうたいました。そして全ての被造物が、キリストに礼拝を捧げました。この出来事は、「栄光の雲」(シャハイナ・グローリー)の中でのことでした。私共も主に祈り、礼拝を捧げる中で、新しい歌をうたえるのです。