5月14日(日)聖日礼拝

「聖 書」
心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、捕われていた霊たちのところへ行って宣教されました。この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。キリストは天に上って神の右におられます。

(ペトロの手紙一 3章15~22節)

「正しい良心を願い求める」

バックストン先生は常に「I am so happy」と言われていました。信仰ゆえです。本日の週報に記された御言葉が先生を支えました。「だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」(一ペトロ5:6-7)「任せる」は(エピリプトー)で「投げる」「委ねる」です。先生にも苦難の時はありました。苦しみの時はあったのです。(召された者の苦しみについては先週にも語りました。)しかし先生は、その時も前述の言葉を言われたのです。神は苦難を益に変えて下さいます。天国の住人で居続けさせて下さるのです。本日の御言葉を御覧下さい。「この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。」(3:21)この御言葉が苦難に打ち勝つ秘訣を語っています。「洗礼」は「ノアの洪水」が型(トュポス)です。洗礼は、肉の汚れを取り除くことが目的ではありません。洗礼は「正しい良心を願い求める」ことが目的です。この意味は霊の命を生きる(新生―聖化)ことと同義です。今までの私達は肉の支配に生きていました。悪魔の支配を生きていたのです。しかし私共は幸いなことに、洗礼の恵みを受けました。新生した私共は、「正しい態度(神に向く)を保つ約束を神にすること」ができるようにされました。私共には外にも内にも「敵」「困難」「問題」「迫害」があります。しかし私共は「呪いの言葉」を吐きません。どんな困難の時も「正しい良心を願い求める」のです。神に向き合い「委ねる」のです。神の人知を超えた「平安」が身を包みます。主は「山上の垂訓」で、「貧しい人」「義のために迫害を受ける人」は幸いと言われました。「天の国は彼らのものである」と言われたのです。私共は幸いです。天国の住人だからです。私共は常に「心の中で」、キリストを主と「聖なる方だと認めましょう」。キリストの支配(天国)を生きましょう。キリストは捕らわれていた霊たちのところへ行き、「宣教」(エケーリュクセン)×(ユーアンゲリゾー)されました。主の主権の「宣言」です。迫害者はキリストによって征服された悪の勢力の具現です。ノアはキリスト者の象徴です。私共は勝利者です。苦しみは「聖さ」となります。希望はキリストです。