「聖 書」
さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。
子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」
(ヨハネによる福音書 13章31~35節)
説 教 「互いに愛し合いなさい」
ヨハネによる福音書は20章で稿を終え、また1章から読み直すことを意図しています。その目的は「信仰の目」を通して読み直し、信仰の豊かさを知り、神に感謝を捧げるためです。では、「信仰の目」を通して、ヨハネ書を読み直すならば、何が分かるのでしょうか。それは、「イエスの愛」です。そのことを強く意識する本書は、21章を「追記」しました。そして私達キリスト者には強く迫る「神の言葉」が示されます。その「言葉」は「互いに愛し合いなさい」です。本日の御言葉です。「互いに愛し合いなさい」は新しい言葉ではありません。旧約において、哲学の道徳観においても言い古されたものです。しかしイエスは、この「命令」を「新しい掟」と言われました。「新しい」と言われたのです。では何が新しいのでしょうか。それは、「語られた方」が「新しい」のです。イエスの「新しさ」を知る為には、「信仰の目」を通して、本書を読み直す他ありません。私共も又、信仰によって本書を通読するならば、当時の人達がそうであったように、イエスの見方、十字架の見え方が「変わる」ことでしょう。そのことが本書が目的としていることなのです。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(21:31)私共もまた「いのち」を得るために、読み直しましょう。「御子を信じる人は永遠の命を得ている。」(3:36)「自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしなった方の栄光を求める者は真実な人である。」(7:18)「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」(12:24)「わたしは道であり、真理であり、命である。」(14:6)「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」(15:10)「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(17:3)どうでしょうか、本書の目的を知ることができたでしょうか。イエスと神は「一つ」であられました。(17:21)愛の関係で結ばれていたのです。それは「永遠の喜び」におられたということです。(15:11)私共もまた神愛によって、「永遠の喜び」を生き続けるのです。