「聖 書」
わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。
これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。
(ガラテヤの信徒への手紙 5章16~25節)
説 教 「キリスト・イエスのものとなった人」
皆様と共に、本日の「聖霊降臨」(ペンテコステ)に感謝を捧げます。聖霊を求める祈りを捧げ、聖霊を受ける火を待ちましょう。(黙禱)(点火)聖霊が今、私共の内にいて下さいます。先週の「主の昇天礼拝」にて、私共は主の「招きにふさわしい歩み」を心に留めました。「互いに愛する」行いが大切であることを悟りました。しかし、この「行い」には聖霊の力が必要です。パウロ先生は(ローマ7:15)にて「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」と告白しました。パウロ先生は劇的な回心を為し、聖霊に満たされ、聖霊の導きに命を賭けて生きた人です。その先生が、先述の言葉を告白したのです。私共は、どうでしょうか。聖霊は「真理の御霊」ですから、全てを明らかにされます。今までは罪の中にいることは日常でしたから、無自覚に生きることができました。しかし、これからの人生は常に神が共におられて、罪を自覚する者となったのです。私共は「神と一つとされる」人生を歩むのです。私共は「ぶどうの木」ですから、神が「手入れ(聖め)」をなさいます。本日から始まる「聖霊降臨節」は次節の「待降節」までの、約半年を過ごす期間です。この期間は、「キリスト者の人生」「成長」「聖化」を御言葉から学び、悟る時です。本日から始まる、この大切な時を皆様と共に「成長する」時として過ごして参りたいと願っています。さて、本日の御言葉を私のこととして適用すると、私はキリスト者の人生を「伝道・教育・奉仕」を具体に生きてきたと思います。祈り(宣教)、学び(御言葉)、仕える(愛)の人生に導かれてきました。その私が今も自分の「したいことができない」不自由を経験しています。パウロ先生は前節にて、聖霊により「真の自由」を得る者とされた私共を語ります。この「自由」は「神を愛し、人を愛し抜く」ことができる自由なのです。しかし私共は未だに不自由を生きています。それを知る先生はガラテヤの聖徒たちに勧めました。「霊の導きに従って歩め」と。私共は今も「肉の人」です。ですから肉と霊が対立します。その具体の対立を先生は「神」「人」「自分」との関係にて語られました。「肉の業」は神、人、自分との関係を破壊します。しかし「霊の結ぶ実」は神、人、自分との関係を豊かに回復します。この回復は、全て「関係性」(間)にあるものです。「ぶどうの木」の「実」(愛と天国)は(我)枝と(汝)枝の「間」にあります。