「聖 書」
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものは何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
(ヨハネによる福音書 15章1~17節)
説 教 「わたしの喜びが」
本日は「わたしはまことのぶどうの木」(告別説教)の御言葉を通して、今、私共が神から戴いている「命の喜び」を味わい知りましょう。本日の有名な御言葉は、2部構成になっています。6節までが「譬」で、以降は「解釈」です。解釈部の文はコンチェントリックが用いられています。その中心の文は11節です。「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」主イエスは告別にあたり、弟子たちに率直に思いを伝えられました。世に残す弟子たちに対して願うことは、「主の喜び」が弟子たちの内にあり、彼らがその喜びで満たされ続けることです。では主が語られる「わたしの喜び」とは何なのでしょうか。それは、「神から愛され、神を愛し、神と一つである喜び」のことです。このことが確かな証拠は「喜び」に用いられた原語にあります。ここで用いられた「喜び」は「カラ」です。ギリシャ語には他にエウドキア等の(喜び)もあります。「カラ」以外の(喜び)は人の一時的な感情を表します。「カラ」は「神(霊)と人が一体となる永遠の喜び、満たし」の永続の喜びを表しています。主は私共を、主が持っておられた喜びにて満たしたいと願っておられます。しかし、この喜びは、私共の力で得ることができないものです。その真理を教えるために、本日の御言葉は「エゴ・エイミ」の権威を持ち、語られています。主のほかに「まことのぶどうの木」はないのです。これはエゼキエル15章の「役に立たぬぶどうの木」の対比にても語られていることです。私共は主イエス・キリストにつながっていなければ実を結ぶことはできません。主は枝も実も根も幹も含む「ぶどうの木」です。私共は「枝」です。私共は主につながっていなければ「枯れ枝」となるのです。実を結ばなければ「焼かれる」だけです。ここで語られる「実」は「互いに愛し合う」ことです。主は「実」でもあります。神は主を愛し、主は弟子を愛し、弟子は人を愛します。愛のバトンは引き継がれていくのです。このことを具体的に語る映画に「ゴーイング・マイ・ウエイ(我が道を往く)」があります。この映画の主題は「我が道は他者の幸せを願い、他者と共に往く道」です。主は私共とつながることを喜びとされました。私共は主の弟子です。神は主の弟子である私共を「手入れ」なさいます。「清め」る為です。いよいよ豊かに実を結び、「永遠の命の喜び」にて満たすためです。