「聖 書」
イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目が見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」
(使徒言行録 1章1~11節)
「同じ有様で、またおいでになる」
「主の昇天日礼拝」を迎えました。主が復活されてから40日の出来事です。「40」は完全数です。モーセが荒野の40年を過ごし「天に上った」ように、主イエスも御復活の姿で「40日」を過ごされ、「天に昇って」いかれました。この完全数の意味は、復活の主は今も生きておられて、主を「信じる者のすべての者」と共におられることを意味しています。(一コリント15:3~4、6)主が「天に上げられた」時、天使たちが使徒たちに告げました。「なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」「同じ有様で、またおいでになる」とは如何なる意味でしょうか。これは字義どおりですが、「目に見える形」を意味していません。この「有様」は「山上の変貌」の時のように「栄光」の(シャハイナグローリー)の有様を意味しています。ですからキリスト者は再臨のキリストを「喜びの心」を備えつつ、「待ち望む者」なのです。また、それと同時に、聖霊を待ち、聖霊の洗礼を受け、聖霊の満たしを受けながら「教会時代」を過ごす者として生きています。以前に語りましたように、エノクやエリヤの死の際の「天に上る」姿は「キリストの昇天」の「型」(トュポス)です。「携挙」の型でもあります。(創5:2)「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。」「主の昇天」の姿は、私共の未来の姿です。「神と共に歩む」ことが肝要です。次週は「ペンテコステ(聖霊降臨)礼拝」です。私共は如何なる心備えをして、「聖霊」を待てば良いのか。それは、「待つ」ことです。主は使徒たちに言われました。「父の約束されたものを待ちなさい。」私共は主の言葉を信じ、ただ待つのです。私共は「天国」について、何もできない者です。何も知らない者です。私共はペトロのように意気消沈し、罪の中に死んでいた者です。その罪人の為に、主は死んでくださり、復活されて、私共のところに来て、「赦し」を与えられました。立ち上がる力を与えて下さいました。(イザヤ44:22)私共は今、天国の住人にされています。主を信じます。私共は「心を整えましょう」。私共は空です。己を捨てます。ただ主の言葉を信じます。主は聖霊を与えて下さいます。主は天国の喜びで満たして下さいます。「Ⅰam so happy」教会を建てられるのは神です。主イエスです。聖霊です。主よ、私共の教会を神の力で建て上げて下さい。